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8、美術館の功罪 Merits and demerits of the museum


 美術館がいつ誕生したか知ってますか?

 ナポレオンがルーブル宮を一般に公開したことが始まりとされています。 それまで王侯貴族に独占されていた美術品を誰でもが見られるようにしたわけです。いいことですね。

 ルーブル美術館にはどんな展示物があるか。エジプトやギリシャ、ローマの古代文明の遺物。これらの多くはヨーロッパ人たちが簒奪したものです。それから王侯貴族の居城やお屋敷を飾っていた美術品。これらは簒奪したものではなくて、アーティストにその対価がすでに支払われています。アーティストにとっては重要な問題です。

 簒奪されたものについては、今日しばしばもともとの所有者であった国からの返還要求が行われることがニュースになります。これにはふたつの正反対の考え方があります。

 ひとつは、やはりそれぞれの文化財には固有の場という大きな背景があります。エジプトの遺物をパリで見るのと、エジプトで見るのとは大きな違いがあります。ルーブルの外はエジプトとは全然つながらないパリの街です。エジプトは行ったことはありませんが、ピラミッドの時代から今日までつながるものは街のあちこちに見られるはずです。私はベルギーに住んでいた時に、王立古典美術館にしょっちゅうでかけました。ベルギーといえばブリューゲルが有名ですが、私を含め多くの人がファン・アイクを最も重要な画家とあげる人が多いと思います。私は彼の「神秘の子羊」は、イタリアのルネサンスのモナリザに対応するべき北方ルネサンスの至宝だと思っています。ところが王立美術館にはファン・アイクは1枚もありませんでした。ベルギーは小さな国ですが、中央集権的な国ではありません。中央集権的なフランスでは、お宝はすべてルーブルに集めようとしますが、ベルギーではその画家が活躍した町に行かなければその作品を見ることができません。「神秘の子羊」はそれが納められた教会に行かなければ見ることはできないわけです。どっちがいいですか?

 みなさんは窯変天目という茶碗を知っていますか?宋の時代に中国で作られた名品中の名品です。利休が井戸茶碗に理想の美を見るまでは、この窯変天目や禾目天目といった中国で作られた茶碗が名品とされていました。たしかに井戸茶碗の名品は、見つめていると世界というか宇宙が見えてくる気がします。現在世界中で窯変天目は3つしか残っていません。私は、やはりここにも宇宙を見ることは可能だと思います。まあ、つべこべ言う以前に圧倒的にきれいです。

 私は、この3つすべてを見たことがありますし、けっこう何度も見ています。なんでか。それはすべて日本にあるからです。日本には火事という人災がありますし、地震や台風といった天災もありますが、中国の政権の入れ替わる時の激動はそんなレベルではありません。大事なお宝がずいぶんと失われています。この窯変天目に関しては、お茶を大切にする日本にあってよかったねえ、ということです。美術館にはリスクを分散させるという機能は、これはやはり今でもあると思います。

 さて、話を現代の美術館に移しましょう。

 王侯貴族がすでに対価を支払ったものについては全然問題ありません。

 では今日の美術館はどうでしょう。しばらく前までは、美術館は作品をけっこう買っていました。しかし最近ではほとんど買われなくなっています。ひとつには世界的に不景気になってしまっているために、公共の施設である美術館には予算が組めなくなってしまっていること。もうひとつは美術品、とくに歴史的に評価の定まった作品については投機の目的で価格が超大幅に上がってしまって美術館レベルでは手も足も出なくなっていること。

 それでも美術館では展覧会は開かれています。美術館同士が作品を工面しあったり、美術館同士で共同の企画をしたりすれば限られたコレクションでも大きな展覧会を開くことは可能です。これはとくに古い美術作品の問題です。

 現代美術はどうでしょう。日本では金沢21世紀美術館の成功以来、現代美術の美術館にも人が多く集まるようになりました。これはたぶん10数年前までは考えられないことだったと思います。努力と工夫の成果か、今日でも美術館の権威は揺らいではいないと思います。なぜでしょう?

 ひとつは、美術館によって、美術作品なんて高価なものは買うことができないと信じているお金持ちではない普通の美術好きな人たちに、美術は買うものではなくて美術館で見るものだと意識を深く刻み込んだということがあります。美術館にあるものは、私たちには手の届かない高価で価値の高いものであるという意識は、美術館にあるんだから自分にはわからなくても、それは高価で価値のあるものなんだろうという刷り込みになっています。価値自体は理解できなくても、村上隆や草間彌生の作品に億の値段がついたというようなニュースは、美術関係ではない一般のニュースとしてとりあげられて、現代美術館にお墨付きを与えています。

 私は、まあそんなもんだろうと薄々はわかってはいましたが、大学院の学生たちに教えるために、現代美術のマーケットについてのルポルタージュを読みました。いやあ(はっきり言っていいでしょう)ひどいものです。100人の超お金持ちと100人の重要人物によって完全に支配されコントロールされています。書いている人もこの状態はひどいってことをわかっていながら書き進めています。たぶん彼には同時代の美術はこの世界しかないと思っているからだと思います。ここからすでに彼が陰謀に取り込まれてしまっていることがわかります。

 多くの普通の美術好きな人たちは印象派が大好きです。そういう人たちの声に応えているアーティストは、多いとは言えませんが確実にいます。しかし彼らが現代美術の専門家たちに評価されることは絶対にありません。現代美術は印象派から150年、大きく進化発展しているのだから、見たい人は過去の美術を扱っている美術館に行くか、欲しければ古美術商に行きなさい、というのが彼らの主張でしょう。

 結果として印象派のような作品は、現代の美術の市場には存在できなくなってしまっています。東京の新しい建物にはほとんど絵は飾られていません。チェーン店のレストランやコーヒーショップには、現代美術風な壁紙に額縁をつけたようなものや、ピカソやマチスの一筆書きのような版画の複製のそのまた複製のようなものが、とりあえず白い壁だけじゃ寂しいからといった感じで飾られています。

 ヨーロッパが王侯貴族からブルジョワに主権が移った。ブルジョワとは金持ちの市民階級です。大多数のお金持ちじゃない市民階級とは、階級が違います。その構造が200年もの間、まったく崩れないできた結果が、今日の現代美術です。

 現代美術を専門とする美術館は、現在この巨大マーケットの傘下にあります。金沢21世紀美術館を成功に導いた長谷川祐子は世界の重要人物100人のひとりです。「芸術起業論」を書いた村上隆は世界の重要アーティストのひとりです。

 私は、長谷川祐子の功績は現代美術の美術館を知的なテーマパークに変えたことだと思っています。たしかに金沢21世紀美術館は、面白いし客もたくさん来ています。長谷川祐子が移った後の東京都現代美術館も面白くなって、10年前では考えられなかったような集客です。

 ここでまた、アーティストの役割に変化が生まれます。アーティストは王侯貴族やお金持ちの市民のため、つまりは顔の見える個人のために作品を作ってきたのが、美術館という巨大な器になんたらマウンテンや、かんたらアドベンチャーといった体験型のアトラクションを提供することが仕事になったのです。アーティストが個人を深く見つめ作品を作り、受け手がそのささやかな声に個人として耳を傾けるという構図はここには存在しません。自分の好きな作品を自分の部屋に飾って、それで癒される、元気をもらう、そういう当たり前の構造の破壊に現代美術は大きく貢献してしまっています。美術は家に飾るものではなくて、美術館で体験するものだと定義付けしてしまったのですから。

 日本では、おそらく多くの先進国では状況は似ていると思いますが、普通の人は美術に愛想をつかしています。あれが美術なら、美術なんかいらない。その結果が、新しい建物に絵がない、あっても誰も文句の出ない(ピカソやマチスは現代美術の世界でもヒーローです)当たり障りのない複製がかけられる。

 この誰からも文句が出ない、当たり障りのことしか言えない状況のことを何といいますか?ファシズム社会です。私は常々グローバリズムはファシズムだと言い続けてきました。気が付いたら、すでにそうなってしまったようです。

 なんでなってしまっているのに誰も気がつかないのか。普通の人は、もう美術なんかどうなってもいいと思っているから。アーティストが普通の人が美術だって期待しているものを提供してこなかったから。

 ただ私はこのファシズムは遅かれ早かれ自壊するものと睨んでいます。お金持ちがお金持ちでいられなくなった時、あるいは美術がお金にならないことになった時です。なんと言っても王様は裸なんですから。現在の価値は陰謀によってでっちあげられたまったくの捏造ですから。

 現代音楽に、バッハの無伴奏チェロ組曲やシューベルトのピアノソナタ21番と比べて遜色のない作品が皆無なように、レオナルドのモナリザやフェルメールの手紙を読む女、あるいは長谷川等伯の松林図屏風や酒井抱一の夏秋草図屏風に匹敵する美術は皆無です。専門家たちがいくらあると言い張っても、受け手である普通の人は絶対にその意見に賛成することはないでしょう。

 いつの日か、おそらく近々、現代美術は20世紀に特有の偉大な失敗として位置づけられ、現代美術あるいは現代音楽という名ではなく20世紀美術、20世紀音楽と呼ばれるようになるでしょう。


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