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33、大人の社会(2)


 さて、あなたは作る側の人間ですか?あなたは誰のために作品を作っていますか?

 若いうちは自分のスタイルを確立するのにおおわらわで、誰のためかと聞かれれば自分のためとしか答えられないと思います。いいんですよ、それで。若いんだから。

 ただ私は、これは凄い障害だと思います。若いアーティストにとっても受け手にとっても。

 近代以降、アーティストは個性を追求する人であり、出発点として独自の個性を発信するための独自のスタイルを作り上げなくてはいけません。いくら絵を描くのが好きで上手であっても、そんなものは最低限の必要条件にしかなりません。逆を言えば絵を描くのが苦手で好きでなくても、独自のスタイルさえ確立すればスタートラインに立てるということです。

 ここで大部分のアーティストの卵はつまずきます。絵が好きで上手だから美術大学に入っても、たぶん90パーセント以上がここでアートを諦めてしまいます。

 近代以前にはこんな障害はありませんでした。レンブラントは光と影を強調するバロックのスタイルを身につけさえすれば出発できました。フェルメールも当時の風俗画のスタイルから出発しています。

 アートを諦めた卵たちのたぶん90パーセント以上は、完全に愛想をつかしてしまって、受け手になることさえ放棄してしまいます。気持ちはわからないではないですが・・・

 ・・・やっぱり近代はまずいですよ・・・

 さて、とりあえずあなたはスタートラインに立てました、とします。

 いいですか。それはスタートラインであってゴールではないですからね。私が近代の唯一の価値と考えているのは、作品が個人とリンクをしていることです。子供としてスタートしてやがて大人になり成熟した老年期を迎える、個人としての成長と作品とが同時進行で進んでいくことです。

 ブラームスのピアノ協奏曲の1番やソナタの3曲の、若さならではの覇気と傷つきやすい感受性の同居。ピアノ四重奏の焦りと後悔と恋の歌。クラリネット五重奏の鬱屈と悲しみ。晩年のピアノ小品の青春の回想と穏やかな子守唄。すべてが独自のフォーマットの中で展開されます。

 むしろきちんとした、豊かな表現を許容するフォーマットがあるからこそ、自由な表現ができると言うべきでしょう。

 豊かな世界は、演奏家にとっては豊かな自己表現の可能性を提供することになります。20台のルプーが晩年のピアノ小品を、青春の側から表現を試みたり、晩年のリヒテルが作品番号1番と2番のピアノソナタの1番、2番を大人の側から安定した表現で再現してみたり。そういう可能性を持つからこそクラシック音楽は、今でも新鮮な表現を受け手に供給し続けているわけです。

 個人のスタイルは、近代のアーティストにとって登録商標の役割を果たしますが、それは同時に個人の表現のためのフォーマットでなければなりません。

 かろうじて生き残った10パーセントのうちの90パーセントが、独自のスタイルを確立できたことで、目標を達成したと勘違いをしてしまいます。まあ、絵が得意な高校生の10パーセントしか入れない美術大学に入れて、そのうちの10パーセントしか到達できない独自のスタイルができれば、それはゴールだと勘違いをしてしまう。わからないじゃないですが、それでは近代に生まれた意味がありません。

 なまじ個性的なスタイルだと業界からも評価が得られたりしちゃいますからねえ。90パーセントがこの評価されたスタイルに固執してしまって、自ら成長の芽を摘んでしまいます。

 アートが仕事であるなら受け手を想定しないという生き方はあり得ないはずです。まあ、受け手などはまったく意識しないで個人を追求してこそ自由なアーティストだって言い張る人は、もしかしたら今でもいるかもしれません。

 自由のため?自由は幻想です。大人は誰も自由なんか信じていません。ただ食べることに困らない(できれば美味しいものを食べたい)、住むところに困らない(治安がいい、あるいは外からの侵略がない)、好き勝手なことを言っても(私がそうですが)ふつうに生きていける。この3つが最低限確保できていれば平和な自由な社会だと言えると思います。大人たちはこの社会を支えることを目標に生きています。できればよりいい条件で。

 アーティストは、口々に自由を連発します。私にはこれが欺瞞にしか聞こえません。若い時に確立した個性的なスタイルに固執してしまって同じような作品ばっかり作っていながら何が自由?そういう輩に限って、自由とか進歩とかを口にします。友人のフランクはいみじくもスタイルの奴隷だと言ってました。スタイルであって、そのなかで自由な幅広い表現が可能になるフォーマットではありません。

 私は、すでに60歳を過ぎた、若い人から見れば十分な老人です。しかし自由ですよ。私自身、年齢を重ねれば重ねるほど自由度が増しているような気がします。もちろん先生をやったりプリントザウルスをやったり社会的な責任は増すばかりだし、実際ストレスは凄かったです。でも精神は、若い時と比べて全然自由です。若い人が自由だなどというのは、若い人には申し訳ないですが、それは周囲の押し付けるイメージで幻想です。

 若い時は、自分が何者かわからないで、でも大人の社会の欺瞞だけは嗅ぎつけることができて、イライラの塊だったんじゃないですか?どうです、若い人は?

 それが自分の進むべき道が見えて、自分のフォーマットらしきものがつかめて、それが自信にもなって周囲をゆとりを持って見られるようになります。

 若い時には何がなにやらだったモーツァルトがわかるようになり、やがてバッハがわかるようになり、シューベルトの生きた軌跡がわかるようになり、一生わかることは無理だろうと思ってたバッハのフーガの技法を楽しめるようになる。歌舞伎を楽しみ、文人画に共感できるようになる自分なんて、二十歳前後の宮山には想像もつかなかったことです。留学を経験したことで、英語、フランス語で海外のアーティストとふつうにコミュニケーションがとれるようになって、マスコミに報道されるのとは違った現地の社会を生で経験できるようになる。世界が広がる、広げることができる。これを自由と言わなくて、なにを自由と言うのでしょう。

 さて、アーティストのあなた。あなたは誰のために作品を作っていますか?私は30台、40台の時は、同世代の頑張っている女性のために作品を作っていました。具体的に見える顔もありましたが、何より自身が先生をやりながら版画の国際交流の団体を立ち上げて、版画家としても個性的な表現を目指していたことが、最初から組織のなかにいるのが当然としているような男たちよりも、社会に出て頑張っていこうとする女性たちに共感できたということがあると思います。

 そして、今はカザルス・ホールでブラームスに聴き入っておじさんたちに楽しんでもらえたらと思っています。これが不思議なもので、当時はすごいものを見ちゃったとは思いましたが、あのおじさんたちをターゲットにするという発想はまったく浮かびませんでした。私があのおじさんたちのレベルに全然到達したなかったからです。今は、もう彼らと同じ土俵で話をしてもいいレベルになれたんだと思います。


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