10、芸術とは何か(2)What is art (2)
芸術とは何かを定義付けしようとすると、学生たちはすでにアーティストですので、立ち位置は完全にアーティスト側です。ですので単純にメッセージだとか表現だとかという自分たちとしてははっきりしているつもりでも、とても定義とは言えないような言葉しか出てきません。お腹すいたからご飯行こうよ、というメッセージは芸術とは言えないですし、お腹がすいたってグズってもそれもアートとは言えません。
なかには、定義付けすることに何の意味があるんだって顔に書いてある学生もいました。こう書いていて、ついあの顔を思い出してプッて思い出し笑いしちゃう。ごめんなさい。意味はたっぷりあります。自分が普遍的な(まあとりあえず授業のなかで共有された)アートの定義に従ってアーティストをやっているという自覚は、これからの支えになるはずです。この不確かな時代に道に迷うことなく、アーティストとして前進してほしい、これがこの授業の最大の目的です。ですから、やります。
ということで、学生たちには自分が尊敬するアーティストのどの作品が好きかを考えることで、定義付けできるのではないかと考え、各自に発表させることにしました。これは定義付けという目的以外に今の学生たちがどういうアーティストが好きなのかを知ることができるいい機会ともなりました。
最初に発表した学生があげたのはゴッホとタピエスでした。今はパソコンがあるんで、すぐ作品を検索してみんなで見ながら話を進めることができます。
ゴッホの作品を見てどう感じるの?
強いエネルギーを感じます。
ミュシャをあげた学生もいます。
きれいだよね?
そうです。とってもきれい。うっとりです。
ミュシャとかルノワールとか、そういうきれいな絵を一段低くみる専門家はたくさんいます。多くの人、とくに普通の人たちに愛され、それが100年以上価値が下がらないってすごいことです。表面的な流行ではなく、わかりやすいけど低俗じゃない。
台湾の現役の若手現代美術のアーティストをあげた学生もいます。名前は忘れてしまいましたが、たしかにいい。
日本の地方都市で版画工房を開きながら地道に活動しているアーティストをあげた学生もいました。私は知りませんでしたが(つまりその作家は積極的にキャリアをアップしようとはしていないのでしょう)、誠実な作品を作り、地道に地方に根をはって生きているというのは、私も学ばなくてはいけないと思いました。
どう?みんな、あらためて自分の好きなアーティストの作品を見て?みんなうれしそうな顔をしています。
今日、この授業始まる前と、今と比べてどう?確実に気持ちはアップしているよね。私もじつに気持ちがいい。もう面倒臭いから。私が定義付けしちゃうね。
じつは私は、日本の芸術科の高校の3年生を相手に「美術概論」数年間教えていました。内容はほとんど同じです。ただ対象が高校生から大学院生に変わったことと、こちらは版画専攻の学生、高校は美術全般、ファインアートももちろんいましたが、デザイナー、工芸系、漫画家志望もたくさんいました。そういったすべてを包括できる定義を最初数時間を使って、ああだこうだとやったものです。で、毎年できあがる定義は、言葉の微妙な違いはあってもずっと同じでした。
「今ある状態より、よりいい状態に向かいたいという人間の本能に、精神的な面で応えるもの」
みんな一生懸命噛み締めています。
どう?自分が考えていた「芸術とは何か」って定義に収まっちゃうんじゃない?
たしかに・・・
まだ狐につままれたような顔をしています。
いや。もちろん他の定義付けも可能なんだよ。私は若いころ、何しろコンセプチュアルの時代だったから、いろんな芸術論を読みました。有名なハーバード・リードやルネ・ユイグはもちろん、お前、それはないだろってえらい狭量なものもありましたし、マルクス主義を基盤にしたものはけっこう印象に残っています。でもシンプルな定義付けはどれも目指してはいなかったと思います。
とにかく今異論がないならこれで進めていこう。これからまだまだいろいろ話し合っているうちに、この定義に抵触する考えが出てくるかもしれない。その時、それを包括する新しい定義が必要になるかもしれないし、その新しい考えが間違っているかもしれない。そういうふうにこの定義を基盤において授業を進めていくことにします。
では、さっそくいきなりゆさぶりです。
芸術と娯楽の違いはなんでしょう?
じつは、この話題もけっこう盛り上がるのですが、ここでは結論だけを報告することにします。違いはありません。というか、もともとはなかったと言ったほうが正確かもしれません。近代を迎える前はむしろすべてが娯楽だったと言ったほうがもっと正確でしょう。画家たちは注文主が喜んでくれる、楽しんでもらえるものを描いていました。注文主や自分が向上することを目標に描くなんてことは、もちろんそうすることが注文主を喜ばせるということを知ってはいたかもしれませんが、基本的には娯楽であったはずです。モーツァルトは今日では芸術ですが、当時は娯楽以外の何物でもなかったはずです。
市民革命後、芸術が独立を宣言した時に、じつはその時に娯楽と訣別してしまったのです。いやはや・・・受け手とのつながり、本来はそれなくして芸術には意味はないはずなのに、それを放棄して研究室に閉じこもった科学者がやがてマッドサイエンティストに・・・
つまり歴史を振り返れば、芸術がことさら芸術になってしまったのはつい最近のことだということです。
では、もう少し広い視野で歴史を考えてみましょう。過去、芸術は何であったか?
ルネサンスは、近代以降の視点で語られることが多いので、当然ながら近代に都合のいいように読み直されています。ミケランジェロの代表作はシステナ礼拝堂の壁画です。ラファエロは聖母子像。レオナルドの受胎告知はウフィッツィ美術館のお宝です。北方ではグリューネバルトは磔刑図、ファン・アイクは神秘の子羊。全部宗教画です。なんのかんの言っても、フランス革命より前は教会は芸術の大きな供給源でした。近代の視点からすれば、日本の庶民文化同様扱いに困るものだと思います。
ルネサンス前、約1000年続いた中世はキリスト教だけです。日本の彫刻といえば仏像です。ほんとうは根付とか置物がずっと彫刻なんですが、あれらは工芸に位置付けられてて芸術とは扱ってもらっていません。いやはや・・・。一番最初の絵画、ラスコーやアルタミラの壁画ですが、あれらはどういう目的で描かれたか、はっきりとはわからないそうです。しかし、何らかの宗教的な意味があったであろうことは、たぶんそうだろうと私も思います。
そう考えると、人類のアートの歴史を振り返ると(これはアートと歴史の授業です)、人類が作ってきたアートのおそらくは半分以上は宗教と関係してきたってことになると思います。
さて、どうしましょう?宗教が「今ある状態より、よりいい状態に向かいたいという人間の本能に、精神的な面で応えるもの」に含まれるものであることは問題はないでしょうが、あまりに大きすぎてコミュニケーションだ自己表現だといった重要だと思われていたものが小さなものに見えてしまいます。近代はあまりに意識的に宗教的なものから目を逸らしてきているんじゃなかろうか・・・長い人類の歴史を振り返れば、芸術はコミュニケーションだ自己表現だ、などという考えが前面に出てきたのは、これも近代以降の症状に過ぎないんじゃないか・・・
これからの授業にひとつ課題が生まれたようです。