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15、郭少宗論(2)


 シューベルトのピアノ・ソナタ21番。シューベルトの最後のソナタである。死の数ヶ月前に書かれている。私が若い頃はシューベルトのソナタ自体の録音が少なかったが、近年はブームのように多くの演奏家が演奏し、録音をしている。とくに21番が多いことには隔世の観がある。この曲は、シューベルトのピアノ・ソナタのなかでは別格のものである。私自身、この曲がどういう曲であるのか、60歳近くになるまで理解できなかった。

Schubert’s Piano Sonata No.21. It’s the his last sonata. It’s was written a few months before his death. When I was young, there were a few records of his sonatas. But recently many pianists play and record Schubert’s sonata, especially No.21. I feel as if we are living in another age. This sonata is special in his sonatas. I myself couldn’t understand what it is until near sixty years old.

舒伯特鋼琴奏鳴曲第21號,是他最後的奏鳴曲。它是在他去世前幾個月寫的。我年輕的時候,有一些他作曲的唱片。但是最近很多鋼琴家演奏和錄製舒伯特的奏鳴曲,特別是21號。我覺得如果我們活在另一個時代,舒伯特的這首奏鳴曲會是他獨特的奏鳴曲。我自己弄不明白這是什麼,直到現在已經六十多歲了。

 20番までの曲のなかには、21番よりも美しい曲はいくつもある。20番までのなかには、21番よりも生々しい感情が表現されている曲がいくつもある。

Until No.20 there some pieces that are more beautiful than No. 21. Until No.20 there are some pieces that have more vivid emotions than No.21.

在20號以前有一些作品比21號更漂亮;直到20號也有一些作品比21號有更生動與情緒。

 では演奏家たちはこの21番をどのような曲として演奏してきたのか。他のソナタと同様に、あるいは自然に継承されたものとして、美しく。最後の交響曲8番と同様に、特別にスケールの大きい曲として。私は正直、それらの演奏には満足してこられなかった。美しいことを目指すなら18番や13、14番のほうが繊細さで勝っていると思っていた。立派な演奏もリヒテルのものなどを聴くと納得をしないわけにはいかないのだが、それは演奏する演奏家の姿を映す鏡としてのものだろう。

How did many pianists play No. 21. Some pianists played it by same way as another beautiful sonatas. Some pianists played it as a big scale piece like No.8 Symphony. To tell the truth I couldn’t be satisfied. If their aim is beauty, No. 18, 13 and 14 are more delicate. I could understand Richter’s big and magnificent performance. It’s a kind of mirror that reflects Richter himself.

許多鋼琴家是怎麼演奏21號呢?有些演奏的或許和其他的鳴奏曲一樣美妙。有些鋼琴家演奏得技巧像八號交響曲。說實話,我不能被滿足。如果他們的目標只是美妙,第18.13和14號會更適合。我不能理解理查大而華麗的演出。這只是一個鏡子,反映出的也是理查本人罷了。

 私が最も愛聴するシューベルトの演奏はラドゥー・ルプーのものである。彼のデビューまもないころの18番の演奏は、大げさかもしれないが私の運命を変えるほどのものだった。その美しさと生命感は今聴いても少しも色あせることはない。彼はシューベルトをメインのレパートリーとして活動を続けてきて いるが、21番だけはなかなか録音をしなかった。ようやく録音したものは、美しさにおいては他の追随を許さないレベルのものにはなっていた。が、正直、私には少々物足りなかった。その後、彼は録音をいっさいやめてしまった。

My favorite pianist who plays Schubert is Radu Lupu. His No.18 was recorded just after his debut. It made me change my life. Its beauty and sense of being alive is still vivid even today. His main repertoire is Schubert. Even him it was difficult to record No. 21. He didn’t record for many years. When he recorded at last, it has no second in beauty. But to tell the truth I couldn’t satisfy it. And then he stopped recording.

我最愛聽的是Radu Lupu演奏舒伯特的曲子。他出道後錄製18號的演奏唱片,改變了我的生活。現在聆聽,它的美妙和生動,也永不退色。他主要的曲目都是舒伯特。即使是他也難以錄製21號。他並沒有錄製很多年。終於當他在最後錄製的階段時,他已經超越比以前還優秀的水平,但是說實話,我還是覺得這沒達到我要的標準。在那之後他就不再錄製了。

 それが、もう5年ほど前になるのだろうか、彼は久々に日本でリサイタルを行った。おそらくここ20年ほど録音はしていないし、聞きたければコンサートに行くしかないのだが、そのコンサート自体が日本では長年行われずにきていた。

It was around five years ago that he held a concert. It was a long time since he held the last concert. He didn’t make recording for more than 20 years. If we want to listen, we must go to his concert. But he didn’t come to Japan for many years.

大約五年前,他難得在日本舉行最後一場演奏會。他已經超過20年沒有錄製唱片。如果我們想去聽,只能去他的演奏會上面聽。但他已經很久沒有來日本了。

 シューベルトの21番である。

He played Schubert’s No.21 sonata.

他彈奏的是舒伯特的21號。

 それまでの彼のどの録音とも全然違っていたし、どの演奏家のものとも全然違っていた。クライマックスがない。ドラマを作らない。こんなことをしていいのか。こんな解釈があるのか。しかし音楽は豊かに静かに進んでいる。戸惑う気持ちを持ちながらもルプーに手を引かれるように私も音楽の森をゆっくりと歩いていた。・・・気がついたら終わっていた。

It’s completely different from his old recording, and also it’s completely different from any other pianists. There was no climax. There was no drama. Is it permitted? Is there an interpretation like this? But his music went richly and quietly. I was very confused. But I walked slowly in a forest of music, following Lupu. When I realized, the music was finished.

這跟他的陳年舊唱片是截然不同的,不只這樣,也和其他鋼琴家非常不同。那裏沒有高潮、沒有戲劇性。這是被允許的嗎?有這樣解釋嗎?但是他的演奏開始逐漸豐富了起來。我感到非常困惑。但我彷彿跟隨Lupu緩緩進入音樂的森林中,當我意識到時,演奏已經結束了。

 クライマックスもドラマもないということは、音楽に終止感がなくなるという効果を生む。思い出してみてもいつ始まっていつ終わったのかが記憶に残っていない。ということは、音楽がいつまでも私の頭のなかを流れ続けるということである。実際、ほんとうに数ヶ月は鳴り続けていたようだ。

No climax and no drama make an effect that music loses sense of finish. I remember that I didn’t remember when music began and when music finished. It means the music continues endlessly in my mind. Actually it continued for some months.

沒有高潮也沒有戲劇性,當音樂終止時效果才產生。我甚至不記得演奏的開始和結束。這代表音樂永遠會在我的頭海裡流竄,直到永遠。實際上他似乎持續在我腦海中鳴奏了數月。

 ある日、私はこれこそがシューベルトが21番に託した表現なんだと気がついた。シューベルトが21番を作曲したのは死の直前である。シューベルト自身は自分が死ぬなんてことは全然思ってもいなかったという見解を述べる学者がいるようである。もしかしたらそうかもしれない。だとしたらシューベルトは古典派以降の音楽のあり方を大きく変える新しい方向を見つけたということになる。実際、もっと生きて21番を新しい出発にしていたら歴史は大きく変わっていたに違いないだろう。

One day I found it’s his purpose he wanted in No. 21 sonata. It was just before his death that he composed No. 21 sonata. Some scholars said Schubert never thought he would die. Maybe it’s true. But if so, Schubert found a new way to change the music after classicism. In fact if he lived long life and he started to new direction from 21 sonata, music history changed extensively.

有一天,我發現這就是舒伯特想要給21號的表現方式。舒伯特在死前做的21號鳴奏曲,或許舒伯特並不知道他即將死亡。但如果是這樣,舒伯特發現了新的方式去改變古典音樂。事實上,如果他壽命更長些,從21首奏鳴曲開始新的方向,音樂史將會有巨大的變化。

 シューベルトは、中でいつまでも散歩ができる豊かな森を作ったのである。その豊かさを完璧に再現する試みは、21番のあるべき姿を示す演奏とは言えないのではないだろうか。どのような歩みでも楽しさを味わえる豊かな森として21番は作曲され、演奏家は森全体の再現を目指すのではなくて、森のなかの様々な表情を味わいつつ散歩することを見せるべきなのである。

Schubert made a rich forest in which he could take a walk endlessly. Trying to recreate richness is an ideal performance that presents what No. 21 sonata should be. It was composed as a forest that people can taste by any kind walks. Pianists shouldn’t represent whole forest. They should show their walks, enjoying many elements of the forest.

舒伯特製作了一個可供人走進永無盡頭的豐滿森林。這試圖讓21號該呈現的豐富感完美再現。這是一個可以讓人品味在森林中散步的曲子。鋼琴家不該重現整個森林,而是應該表現他們的步伐,讓人享受在森林中的感受。

 とうぜんながら、演奏家の年齢も体調も演奏する環境も、まさにケースバイケースである。同じ形をした理想的な演奏というものは存在できない。ピアニストの清水和音があるラジオ番組で、この曲は人前で演奏する曲じゃなくて自分の部屋で好きなように弾く曲だといったニュアンスのことを言っていた。たぶんそれが正解なんだろう。

Needless to say there are many kind of possibilities, like age of pianist, his condition, concert hall, piano, etc. There is no solid ideal performance. A Japanese pianist Kazune Shimizu said in a radio program “Schubert’s No. 21 sonata isn’t a piece to play in a concert hall. It’s a piece for a pianist who plays it in his room.” I agree it.

當然,存在著很多種可能性,像演奏家的年齡、身體狀況、環境、鋼琴等等。沒有固定的演奏型態存在。一位日本鋼琴家清水和音在廣播節目中說過舒伯特的21號鳴奏曲並不適合在音樂廳演奏,而是適合在自己的房間中。我同意這點。

 不思議なものでこれに気がついた瞬間、誰の演奏も楽しめるようになった。それぞれの演奏家はそれなりの歩き方で森を歩いている。そういうことである。

Strangely enough after I found it, I could enjoy any performances. Each pianist takes a walk in the forest by his way. That’s that.

不可思議的是,當我發現這點後,我可以享受任何演奏。任何鋼琴家用他們的方式帶我進去森林中,就是這樣。

 このほぼ同時期、私は突然バッハの無伴奏チェロ組曲の面白さに開眼することができた。同じことである。この曲も散歩をするべき豊かな森である。ミッシャ・マイスキーは毎朝必ずこの曲のどこかを弾くことで1日が始まると言っていた。バッハの曲、とくに独奏楽器のための曲にはほとんどすべてに同じような機能が備わっている。バッハは練習曲としてそれらの曲を書いたとよく言われているが、練習曲というのは豊かな森を作るということなのだろう。おそらくバッハは気がついていたのかもしれない。たぶんロマン派以前の人たちは多かれ少なかれわかっていたのではないかと思う。

In almost same period I could suddenly understand Bach’s unaccompanied cello suite. It’s the same thing. These pieces are a rich forest, too. Mischa Maisky says a day begins by playing a part of this piece every morning. Well, It’s a literati painting.

在幾乎同一個時期,我可以突然理解巴哈無伴奏的大提琴組曲的有趣。真的讓我大開眼界。這是相同的事情,也是在豐富的森林中散步。麥斯基曾經說一天的開始就是彈奏這個部分開始。巴哈的曲子,具有機能性,特別是獨奏樂器。巴哈常說為了這首歌做練習曲,練習曲也有可能是一片森林的雛形。這點可能巴哈自己也知道,但我想,大部分在浪漫派以前的人們不知道吧。

 さて、それが文人画である。

 郭少宗の山々は20番までの美しい曲たちと同じ世界には完全に到達している。では21番は。

Jason Kuo’s mountains have already arrived to the beautiful world of until No. 20 sonata. And then how about No. 21?

最後,這是一個文人畫。郭少宗的山和20號的美妙曲子在同樣的世界一起抵達。那21號呢?

 西行は日本の多くの大人の男たちの憧れのヒーローである。世界中でブームになっている俳句の祖、芭蕉は西行に憧れ西行が平安時代にやったことを江戸時代にやりたくて俳句を確立したわけである。西行は吉野の山を、日本全国を歩く。ひたすら歩く。芭蕉は旅を栖とした。俳句は言葉による自然の素描である。すぐれた風景画が人間の感情を映し、呼び覚ますようにすぐれた俳句は自然を描写しながら人間の深い感情を表現しつくしている。

Saigyo is a big hero whom many men today adore. Now Haiku is very popular in all over the world. Basyo father of Haiku adored Saigyu, and he wanted do in Edo period what Saigyo did in Heian period. So he founded Haiku. Saigyo walked in the mountains in Yoshino, and in all over Japan. Basyo thought travel was his home. Haiku is a sketch of nature by words. Good sketch reflects artist’s emotion, and people can feel emotion from the sketch. Good Haiku is not only a good sketch but also deep expression of poet.

西行是日本大多數男人憧憬的英雄。現在俳句在全世界很受歡迎,徘句之父-芭蕉想要是平安時代西行到江戶時代。西行到吉野山,走遍日本各地。他覺得旅行就是他的家。俳句他對大自然的素描。好的排句不只是好的素描更是可以讓人感動的詩句,可以描摹出人間深刻的感情。

 西行に「風になびく富士の煙は空に消えてゆくえもしらぬわが思いかな」という歌がある。西行自身が自分の歌のなかでベストとしているものである。晩年の悟りともいうべき境地は、「自分の気持ちだってわかりゃしない・・・それでいいじゃないか」である。そしてひたすら歩いた。逍遥、散歩、旅、どんな言葉を使ってもいいが、彷徨うことこそを理想の世界としたわけである。

There is a Saigyo’s Waka, “Trail of smoke from Mt. Fuji trail has disappeared by wind. I don’t know where I will go” Saigyo himself thought it’s the best Waka of his life. The last phase he arrived is “I don’t know myself. It’s OK”. And he walked and walked. There are many words like walk, on foot, stroll, promenade, etc. His ideal world was wandering.

西行有一首和歌:「富士山步道煙徑已經隨風消失了。我不知道我會去哪裡。」

西行本身就是一首最好的歌曲。他到晚年的時候說「我不了解我自己,但這樣也好」然後他走著走著,他有很多文字都是在走,徒步走,散步,漫步...等。他的理想世界就是飄零。

 郭少宗には21番が見えてきているようだ。私にとって5歳年上の郭少宗は古くからの友人である以上に芸術上の兄である。私にはまだ21番は作れはしていないものの21番の意味は理解できるようになってきている。私も追いついていきたいと思っているが、郭少宗が彼自身の21番を提示するのは遠くない将来であることは間違いないだろう。

I suppose Jason can see No.21. Kuo who is five years older than I is not only old friend but also brother as artist. I can’t make No.21 yet. But I can understand what is No.21. I’d like to follow him. I’m sure Kuo will finish his No.21. in near future.

我認為郭少宗應該有看過21號。郭少宗比我年長五歲,不僅僅是我的老朋友更是藝術之友。我還不能作出第21號。但我了解甚麼是21號。我想要追隨他。我很確定郭少宗在不久的將來一定能完成他的21號。


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