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12、廖修平論 Liao Shou-ping(1)


 これから数回をかけて、3人の台湾のアーティストの作家論を掲載します。

 最初は、台湾では最も重要な版画家、廖修平先生です。これは、廖先生の80歳を記念して開かれる国際会議に発表するために、主催者である国立台湾師範大学から依頼があって書いたものです。廖先生の許可を得て転載することができました。

 私の大学院の授業では、「仕事とは何か」の後、各学生が現役の尊敬するアーティストにインタビューをして作家論をまとめ、発表するという段取りになっていました。これら3つの作家論は、その見本というか参考のためという目論見もありました。

 廖先生は、私にとっては大学院時代の恩師になります。私は大学院には油彩画で入りました。その時たまたま廖先生が外国人招聘教授として2年間筑波大学に来ることが決まっていて、私は版画を専攻に変えました。この大学院での2年間は、私にとっては最高に幸せなものでした。 

 版画室では、機会あるごとに餃子パーティが開かれました。なにより廖先生と関わった学生にとってはいちばんいい思い出だと思います。

 版画室は、版画を勉強する学生だけでなく自由な美術にあこがれる学生たちの溜まり場になっていました。私にとっても先生の大学に来ない日も版画室は天国でした。

 大学院生が私ひとりであったこともあって、先生の刷りの助手をよくやりました。先生は週2日の出勤でした。先生は大学に来ない日は、東京の自宅で制版をして、大学に来て1日目の夜に刷りをするというのを習慣にしていました。この時のアシスタントの経験は、もしかしたら授業以上に得るものは大きかったと思います。アーティストとしての生き方はこの時に学べたのだと思います。

 ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、先生は日本の時代劇が大好きです。映画も見ますし、小説も読みます。山本周五郎、司馬遼太郎、柴田錬三郎、池波正太郎、藤沢周平、おそらくこれらはすべて読破しているのではないでしょうか。来日して必ず寄るのが大型書店で大人買いをしていました。

 映画は、時代劇といえば必ず足を運びますし、来日して時間があけば時代劇を探して、夜の時間は映画館です。先生が筑波で教えていたころ、先生と、今はもうなくなってしまった浅草の映画館で時代劇の4本立てを見たこともいい思い出です。映画では、山田洋次の「男はつらいよ」シリーズも大好きで、これも全部見ているはずです。

 これらに付き合うのに、大学の2日目の授業が終わると、よくそのまま先生といっしょに東京に出ました。夜は先生の自宅に泊めてもらい、朝になると、

「宮山君、朝ごはんできたよ」

 それでは、以下が廖修平論です。

時代に応えたアーティスト、廖修平

 近代以降のアーティストは、西洋では教会や王侯貴族の束縛から離れ、個人としての自立を目指してきました。このこと自体の是非は置いておくにしても、現代ではアーティストの自立はあまりに自明なものとなってしまったため、すべての決断を自分を中心に行うようになってしまっています。今日、作品が売れないということは、これも自明なことになってしまっていますが、元をたどればアーティストが注文主の需要に応えることを拒否したところから近代が始まったわけですから、これについてアーティストは文句をつけるわけにはいきません。

 作品がほしいという人の声を無視してまで、社会の需要を拒否してまで、そこまで表現したい自己とはなんでしょう。私もアーティストとして40年以上を生きてきていますが、そんな強烈な表現を求めるような自己などというものにはとんと縁がないまま40年が過ぎてしまいました。これは私ひとりの問題ではなく、何を描くべきかはいつでも若いアーティストの大きな問題です。私は先生を35年にわたってやってきましたが、そのような強烈な表現意欲を持った学生にはとうとうひとりも会うことはありませんでした。なかにはあると主張する学生もいましたが、そのほとんどは何かのコピーにすぎないものでした。それは私が教えた数百人、もしかしたら千人にとどくかもしれない卵たちに金の卵がたまたまなかったということでしょうか。私が数えてきたのは、とくに最後の十数年は、一般の普通の人ではなく、美術に進みたいと考えた、つまり選ばれた(あるいは自分で選んだ)才能です。そう考えれば、金の卵は、一般の普通の人たちを数に入れれば、一万人に一人かそれ以上に少ない確率ということになるのでしょう。

 才能というものが、一万人に一人以上の確率でしか登場しないとしたら、もしかしたらそれは正しいのかもしれませんが、一万人に一人の天才のみに支えられるアートの世界のありかたは正しいのでしょうか。

 私はすべてこれが原因だとは言いませんが、多くの美術好きが美術を触れる場として美術館をあげるのは、これは一般の美術好きな人が美術を日常的に見ることを、あるいは実際に自分の手に入れることをあきらめていることの証拠だとは言えないでしょうか。

 また、私は約40年前に美術大学を卒業したわけですが、大学卒業後今日まで継続的に作家活動を続けているのは卒業生のおそらく1割といったところだと思います。そのうちそこそこ業界内で評価され、作家活動を(経済的な問題を含め)社会的な障害なしに続けられれているのはそのまた1割にも満たないのではないでしょうか。単純に、そこそこの才能を持って(10人に1人)が美術系への進学を考えて、でも実際に美大に行けるのはそのうちの10人に1人。大学を卒業して継続できるのが10人に1人。とりあえず社会的な障害なしに活動できているのがそのまた10人に1人。ここまで到達するには1万人に1人の競争を勝ち残る必要があります。その勝ち残ったアーティストが、結果として金の卵だったと言えば、計算はぴったり一致します。

 ところが、おそらく一般の社会に才能が認知されるとなると、そのまた100人に1人というところまで絞られるかもしれません。100万人に1人。日本人の人口は約1億人ですから、約100人のアーティストが社会的に存在が認知される。実際には油絵、日本画、彫刻、版画などすべてのジャンルをいっしょにしても100人ものアーティストが認知されているとはとても思えませんが。

 ここまでの話で、アーティストになるのは大変なんだと認識をあらたにすることになるのかもしれません。しかし、私の言いたいのはそういうことではありません。そんなアートの状況を良しとするのか。ということです。

 廖修平を個人的に知っている人なら誰でも知っていることだと思いますが、彼は何よりも行動の人です。歩くのがとにかく速い。80歳になった今でも若い人でもうかうかすると追いつかないのではないでしょうか。目的地がある。ならばその目的地には一刻も早く着きたいのです。ぐずぐずしている人は置いていかれます。思いついたら動く。今日、ここにいるみなさんのなかにも、突然電話がかかってきた経験のある人は多いでしょう。

 廖修平は1962年に日本の東京教育大学に留学します。

 留学にはふたつの目的が考えられます。

 ひとつは最新の流行をいち早く自分のものにして、帰国後、その紹介者として社会的な地位をえようとするもの。日本では、私が若いころはこのタイプが多かったと思います。彼らの特徴は現地の言葉ができないことです。たんに最新のファッションが見られればいいわけですから、とくに現地に溶け込む必要はありません。現地に詳しい通訳がいてくれれば十分だし、数ヶ月から1年も留学すれば、言葉なしでもいいかげん理解できるはずです。

 この留学の決定的な問題は、留学先の文化が日本の(あるいは台湾の)文化よりも上であるという認識が基盤になっていることです。昨今、日本では留学を希望する学生が激減していることが社会問題になっています。今まで自分たちより先進国であると思われていた国々が横並びになった時に、留学する必然性がなくなるのは当然です。留学を経験した大人たちも、自分が最新ファッションの輸入を目的にしていたとしたら、若いアーティストに留学を勧める説得力は持てません。

 もうひとつの留学の目的は、国際的なアーティストになるためです。

 廖修平の留学の目的はこちらです。国際的な活動を視野に入れていたからに違いありません。対中国の問題もあってでしょう、台湾独自の地位を国際的に認知確立するためには、台湾の美術を国際的なものにするという切羽詰まった思いがあったはずです。

 そんな廖修平の思いとは違って、60年代の日本の洋画は公募団体という日本独自のあり方ですでに固定化されていました。画壇という呼び名で呼ばれるそれです。よく言えば、ヨーロッパから入ってきた油絵が日本的な洋画というかたちに成熟して、海外からの影響を受けつつも独自の歩みを持つ世界として確立されていました。それは広い島国の中で充足しきっていて、世界に窓を開くものではありませんでした。それは廖修平にとっての国際化の希望を叶えるものではありません。

 そんななか、当時は棟方志功や浜口陽三、長谷川潔といった版画家が世界的な評価を得ていた時代でしたし、池田満寿夫は現役ばりばりで世界を相手に活動をしていました。版画に興味が移るのは自然なことであったでしょう。彼は、この時期すでに同時期に活躍していた多くの版画家たちと交際を始めています。

 廖修平は絵も描き、ときには彫刻作品も作りますが、基本的には版画家です。廖修平は版画を選んだ、あるいは版画が廖修平を選んだと言うべきかもしれません。

 1965年にパリに移ると、油絵も続けながらヘイターのアトリエ17で本格的に版画の勉強を始めます。60年代後半のパリは激動の時代でした。従来の価値を根底から問い直す運動が、政治だけでなく様々な分野で同時多発的に起こっていました。今日から見れば、むしろ文化のほうに大きな波があったのではないでしょうか。美術の分野で、廖修平がまさに版画の概念を根底から覆すヘイターの門を叩いたのは、まさに時代が彼を呼び込んだとしか思えません。当時のアトリエ17には日本からも多くの若いアーティストが籍を置いていましたし、世界中から若いアーティストが集まる、いわば版画の世界の中心であったはずです。

 ここパリで廖修平はふたつの重要なことを学びました。

 ひとつはアートに国境がないこと。国際交流抜きにしてこれからのアートはありえないことを実感したはずです。

 もうひとつはアイデンティティです。なぜアジア人なのにヨーロッパ人と同じものを作らなくてはいけないのか。アジア人がヨーロッパ人と同じものを作って誰が見たがるのか。本質的に自分のものでないものを作って、自分のものを作っている人間に太刀打ちできるのか。アートはインターナショナルでなくてはならないが、自らはローカルな表現を深めるべきだ。

 ヘイターのアトリエ17で身につけた技術を使い、彼が子供時代をすごした龍山寺がモチーフになり、東洋的なシンボルがモチーフとなり、まったく彼独自でありながら、台湾人にとってみれば親しみやすく、欧米の語法で作られる作品は世界的に受け入れられることが可能になりました。東京国際版画ビエンナーレでアジア人初の受賞者となります。

 1969年にアメリカに拠点を移します。私自身も短期間ではありますが、ベルギーとアメリカに留学の経験があります。日本にいるとひとくちに欧米と言ってしまいますが、アメリカとヨーロッパではかなり違うものです。ヨーロッパでは、作品はアーティストが考えるいいものを作ることが大前提です。それに対してアメリカでは、アートは作品であると同時に商品です。商品として成り立たせるために、アメリカ人はじつに合理的に作品を作ります。私は、廖修平はアジアのアイデンティティを持ち、ヨーロッパの技術をもとに、アメリカの合理性で作品を作っているアーティストということができると思います。

 そういう彼自身の形が出来上がったところに、1977年に日本の筑波大学に招かれ、2年半にわたって教鞭をとることになりました。私は強運なことに先生が来日してスタートした4月に大学院に入学していました。入学後、油彩画の大学院生が全員集められ、

「廖修平という国際的な版画家が2年間、外国人招聘教授として来ることがきまった。ついては版画を専攻する学生が1人もいないので、誰か版画に移らないか?」

 私が「ハイ!」と手をあげるのにたぶん1秒はかかっていなかったと思います。この瞬間に私の運命は大きく変わることになりました。この時に手をあげたのは私1人だったので、最初の1年は先生1人に学生1人という、ここの台湾の方たちが聞いたら、なんて贅沢なと怒られてしまいそうです。

 私は1955年生まれです。廖修平が1936年に台湾で生まれたことが先生のアーティストとしての運命を大きく左右したのと同じように、1955年にアジアに生まれたということは、やはり大きな意味を持つものです。先日、彫刻の許自貴の個人美術館兼アトリエを訪問したのですが、彼も私と同じ1955年生まれです。また、私と同じように出発は油彩です。美術館スペースには学生時代の油絵が数点展示されていましたが、そのうちの1枚が私が油絵と決別を決めた作品と驚くほど似ていました。なかなか上手なものです。まさにアジア人が西洋の油絵を消化しきったものです。おそらくあそこまで描けるようになった若いアーティストには2つの可能性があったはずです。

 先人たちが苦労して築き上げた油絵の伝統を継承する道。

 もうひとつは許自貴や私が選んだ道。

 私は、将来が見えてしまった気がしました。私は特別に達者ではないですが、そこそこの腕前を持って、画壇でそこそこの地位を得ることになるであろう道。台湾に日本の公募展のようなあり方があるかはよく知りませんが、似たようなピラミッド構造の組織はあるでしょう。

 もし油絵にもっと可能性を感じることができたとしたら、おそらく私や許自貴の選択は違ったものになったかもしれません。

 私は版画の可能性に賭けることにしました。

 じつは、ちょうど油彩画である程度の完成度を持つ作品が描けるようになったころ、そこからいかに自分を発展させることができるか、あるいは他に道はないものかと苦しんでいる時に、廖先生は大学でほんの半日程度のワークショップをしてくれました。当時の唯一の版画の授業を担当していたのは、油絵が専門で版画のことはほとんどわかっていませんでした。「版画なんかは油絵が売れるようになれば職人が作ってくれるようになるもんだから、どんなふうに作るかさえわかれば十分」と公言するような人でした。そういう先生ですから、先生自身が版画についてよくわかっていないのは当然でした。ですので、私たちは自分たちで技法書を頼りに実験をしていたというのが現実でした。そんな先生なので、廖先生が来てワークショップをやってくれるということもほとんど学生たちには知らされることがなくて、参加したのはたまたま毎日版画室に入り浸っていた数人だったと記憶しています。

 油彩に限界を感じていた学生にとって、1970年代というのは版画に可能性を感じることができた時代です。私の当時の希望は、油彩とはまったく離れた現代美術の自由な世界でした。これからの美術はどうあるべきかを勉強しました。美術史の本を読み、画廊を回ったものでした。当時は銀座から神田あたりまで、現代美術を扱う画廊が数十軒あって、週代わりで展覧会が変わるために、ある程度見たいものを選んで回っても、半日仕事でした。1日に20も30も回ったものでしたが、当然ながらいいものは2つ3つという感じでした。が、それらはほんとうに刺激的で、現代美術こそは歴史的に必然なものであり、私もその先端の仕事をしたいと真剣に考えるようになりました。

 が、現実の大学のなかはそれらとは隔絶した社会でした。現代美術と大学のなかとをつなぐ唯一の可能性は版画でした。

 そんななか廖先生のワークショップ。忘れもしない1版多色刷り。版画でもって現代美術の道を開く。私にはそう感じました。それだけではありません。私は、少ない情報のなかでそれなりに頑張ってエッチングをやっていたのですがどうも思うような効果は得られないでいました。先生が、版画は刷りでも全然違うから、誰か版を持ってきなさいと言って、私の版を刷ってくれました。これにも驚きでした。私が意図していた以上の効果がすでにできあがっていたのです。

 この日は版画の魅力と可能性に目覚めた日でした。

 大学院での廖先生の教えかたは、今自分が先生を経験した後で、なおさらそう思うのですが、まさに理想的なものでした。油彩や日本画とは全然違う、版画の概念を身を持って理解するために、最初にコラグラフを使った1版多色をやりました。この自由な面白さは多くの学生に決定的な刺激だったようで、コラグラフを自分のメインのテクニックとして版画家として活躍を始めた学生が何人もいました。

 最近ではイラストレーターとしての仕事が中心になってしまいましたが金井田英津子。彼女は、夏目漱石や内田百閒といった今日では古典とされる美しい文章に、多くの美しいイラストを添えた濃密なイラストブックを何冊も刊行しています。これらのイラストの技法はすべて版画がベースになっています。

 台湾でも発表の機会が多い澤田祐一は、コラグラフの可能性を師匠の廖先生を超えて追求し続けているアーティストと言えるでしょう。彼はまた、今日ますます発展している台湾と日本との交流の最初の一歩を踏み出すきっかけを作ったアーティストとしても重要です。


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