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13、廖修平論(2)


 廖先生は1人ですべての版種を教えてくれました。これだけでもすごいことですが、彼は技術を教えるだけの先生ではありませんでした。

 版画をやるメリットは世界がいきなり相手だということです。彼自身、日本で勉強し、パリでまさに先端の中心であるアトリエ17で勉強し、そしてアメリカを拠点にしている。まさに国際的に活動するアーティストの手本が目の前にいるわけです。彼のすごいところは、行く先々の言葉が話せることです。私自身ほんとうに痛感しているのですが、言葉はほんとうに重要です。現地のアーティストと直接コミュニケーションを取ることがないとしたら留学の意味は半減以下でしょう。私自身、多少の英語とフランス語ができたおかげで、アメリカ、ベルギーの留学が実りあるものになったと思います。とくに25年前のベルギー、フランスは英語ができる人がとても少なかったですからなおさらです。廖先生もいかに言葉が大事かは機会があるたびに強調しています。現地の言葉ができないで現地のアーティストと深い交流はできない。現地の普通の人と同じ生活を経験しなくては、ほんとうの意味で現地の文化は理解できない。そう言います。

「版画なんか作品が売れるようになれば職人が作るからいいんだよ」と公言していた先生はフランス留学をしていましたが、フランス語がいかに留学には必要ないかを力説する先生でもありました。いかにもフランス風の絵を描き、ベレー帽をかぶる色白で長身ですらっとしたおしゃれな先生でしたが。

 私は今、台湾で生活をしています。来てからすでに2月半が過ぎていますが、中国語は勉強はしているのですが、まだまだ全然ダメです。こればかりは廖先生に顔向けできないことです。この文章が発表されるまでにはまだ数ヶ月あります。それまでには少しはなんとかしたいとは思うのですが・・・廖先生は日本で教える時には完全な日本語でした。彼自身はもう忘れてしまったと言っていますが、先生は5ヶ国語を話します。私は、とても話すまでにはいきませんが、イタリア語は少々わかります。これで中国語がなんとかなれば5つになって先生に追いつくことができるのですが・・・

 先生は学生だった私たちに国際コンクールへの出品を勧めていました。もちろん簡単に入選できるものではありませんが、世界に挑むということに対する気持ちは制作に大きな刺激になったものです。これは日本に限らず、台湾でも中国でも、若いアーティストに教える時には必ず強調したことだったそうです。日本を含め、アジア人には先輩や先生をたてる、組織を大切にするという伝統があります。これはいいことではありますが、アーティストが国際的に活動をするということと矛盾することではありません。よく考えればわかるはずです。

 それから先生の教え方の大きな特徴は、学生たちに実験や新しいアイデアを推奨したことです。ある技法を勉強する時、それがある程度理解できた時に、それを応用した新しいアイデアを思いつくと、

「それはいい。どんどんやってみたら」

 私が覚えているかぎり、それはやめたほうがいいと言われたことはまったくなかったと思います。とくに私が現代美術志向で、版画とはかなり離れたアイデアを思いついてでもです。

 また、これはもしかしたらもっとすごいことかもしれませんが、学生が思いついたアイデアであっても、それが先生にとっても面白いと思われた時には、先生自身もそれを試してみることです。これは先生自身が、学生たちと同じ地平に立つアーティストであるという自覚があったからだと思います。それがまったく自然なことであったことは、これはほんとうに自信があったからこそできることだと思います。

 また、彼はけっして孤独なアーティストではありませんでした。日本留学時代に培った、あるいはパリで知り合ったアーティストたちに私たちを惜しげもなく紹介してくれました。その紹介の仕方が面白いものでした。あらかじめ彼のほうから学生が行くということだけを先方に知らせておきます。私たちは、私たちだけで先方と連絡を取って、私たちだけで行くのです。私たち学生にしてみれば当時は雲の上の人たちですから、これも鍛えられました。先生になった私も同じようなことをずっとやってきました。

 これはフランス語も英語もできる先生が、パリでもニューヨークでもやってきたことだったのだろうと思います。パリやニューヨークに行って、当時の流行の先端を見てそれを真似するための留学とは対極にあるやり方です。先生自身、パリの先生になんでフランス人と同じようなものを作ろうとするのか、台湾人として真実なものを作らなければ意味がないだろうと言われて目が覚めたそうです。

 私自身も同じ思いをニューヨークで味わいました。もちろん廖先生からアイデンティティの重要さについては教え込まれていましたが、ニューヨークで当時の先端と日本では呼ばれていた画廊に通い、その思いを強くしたものです。まあ当時はコンセプチュアルアートとともに近代の継続的な流れが終わり、混乱した時代であったということが、今思えばなおさらその思いを強くしたのだとは思いますが。はっきり言って、先端と呼ばれているものはつまらないものでしたし、先端と呼ばれる美術以外に当時のニューヨークにはたくさんの種類の美術があって、日本で先端だと思っていたものもワン・ノブ・ゼムにすぎないものだと思いました。・・・今日は、グローバリズムに席巻されて価値観は一本化の傾向にあるようではありますが・・・それはけっして健全なことではないでしょう。世界をひとつの価値観で統一しようとすることは、これはファシズムです。

 それからこれも忘れてはいけないことですが、この時期の廖先生の作品は、東京国際版画ビエンナーレで受賞した時の作品とはずいぶん違うものでした。東京ビエンナーレで受賞した作品は、様式的である分強い印象を与えるものでしたが、この時期の先生の作品は余白を生かした日常の身近なものを構成するものです。茶器や水墨画に描かれるような岩がモチーフに選ばれているために一段と東洋的なものになっていました。

 この後も先生は周期的にスタイルを変えて今日に至っています。私は、これは凄いことだと思います。アートが注文主からアーティストのものになったことには功罪両方あると思います。私自身は罪のほうが大きいのではないかと思っているのですが、アートがアーティストのものになったのなら、アーティストが制作や勉強、あるいは人生経験を重ねることによって成長するごとに、作品もいっしょに成長するべきではないでしょうか。しかし、実際に作品を成長させているアーティストがどれだけいるでしょう。ゴッホやモジリアニは早死にしたからその後はわかりません。しかし60歳になってあのような作品を作り続けていたとしたら、私は彼らを尊敬することはないでしょう。私と同世代、あるいは上の世代は、私と同時代を生きています。はたして何人のアーティストがスタイルを変えているでしょう。版画は危険です。版画という技法は、ちょっとした実験で予想を超える効果を生むことが多々あります。その半ば偶然に生まれた効果は、当人とはほとんどつながりを持たずに作品として十分成立をさせてしまいます。それが評価される。その評価は彼らに社会的な地位を与え、彼ら自身もそれがあたかも彼らの必然であったかのように錯覚をしてしまう。私は、それらの作家を過去の自分に対する職人にすぎないと言ったことがありますが、廖先生もよく知っているアメリカの写真家フランク・ディテューリFrank Dituri は、それは過去の自分に対する奴隷だと言いました。私は、今は過去のたまたま拾ったほんとうに自分のものではないものに隷属する寂しい人生だと思っています。人間は成長をするために、時に大きな冒険をしなくてはいけない時があります。冒険をすることのできないアーティストとは、これは形容矛盾以外の何物でもないでしょう。

 さて、そんな廖先生に限界はあるのか?

 あります。ただし、それは時代に自らを捧げた廖修平に求めるものではありません。彼は私たちには想像を絶する努力で、想像を絶する成果をあげてきています。彼が果たしきれなかった限界は、それは私たち次の世代の課題です。

 さて、私たちの課題が何かを確認するために整理をします。まず廖修平先生の業績です。

 版画が国際的なひとつの舞台の上の芸術であるという認識を常識にした。

 国際的な舞台で自己を主張するためには、民族としてのアイデンティティを自覚し基本にしなければいけないという認識。

 台湾が、国際的な芸術である版画のひとつの舞台であることを国の内外に認識させる努力。

 後進を育てる。これに関しては、まず先生自身がいいアーティスト=いい先生を実践してみせたことがなによりだと思います。私と同世代の廖先生の教え子である先生たちは、骨身を惜しまず学生のためにほんとうによく頑張ります。何故?と聞くと

「それは大人の義務でしょう。オレたちは廖修平の弟子だから」

と誰もが答えます。

 アートを社会のなかに認知させる。廖先生は政治家でもあります。社会の中枢を担う知り合いにつながる、有名な版画家という立場、大学教授という立場も存分に使って積極的に働きかけてきたことと思います。

 そして自ら成長する姿を示す

 こう並べてみてつくづく思うことですが、日本に廖修平がいなかったことは残念とか惜しまれるとかいった言葉では足りない損失だと言わなければならないでしょう。

 ここで、この小論の最初に戻ります。

 台湾では、版画を含め多くの展覧会があちこちで開かれ、毎週どこかで開かれるオープニングには多くのお客、関係者が集まります。これは今の日本では考えられないことです。

 マーケットも厳しいとは聞きますし、実際厳しいのでしょうが、日本と比べればうらやましい状況です。これには大人だけでなく若いアーティスト、画廊経営者の努力が見えるようです。

 なにより台湾では着実に若いアーティストが育っています。美術大学はどこでも版画の学生がたくさんいます。またそのレベルも非常に高い。学生たちも積極的に発表活動を展開しようとしています。

 おそらく優秀な若いアーティストの比率は、1万人に1人を超える割合になっていることだろうと想像できます。つまり1万人に1人しかアーティストになれないという不自然な状況が打破できる可能性があります。

 しかし、これは次の課題を生むことになります。つまりマーケットです。若いアーティストが若い画廊といっしょに育つ。これはまずもっとも常識的で確実な方向でしょう。しかし、社会に版画が広がり定着するためにはもっといろいろな手段を考えるべきだと思います。

 これは廖先生とも話したことですが、結婚式の引き出物や会社のイベントの記念品、あるいは住宅建築会社と提携して完成した住宅に作品をプレゼントする。

 まだまだアイデアはあると思いますが、これらを仕事にするのです。今活発な活動を展開している企業の多くは10年前には存在の想像すらできなかったものばかりです。今、ある企業が10年後もあるとは限りません。また10年後には今では想像もできなかった新しい企業が、おそらく活発な活動を展開していることでしょう。

 そういう意味では、これからは版画にとってチャンスかもしれません。ただ、そのチャンスを手に入れるには黙っていても、既存の形に依存しても、それは不可能でしょう。それこそが、廖修平先生が次の世代にバトンタッチしてほしい廖先生自身が果たしきれなかった課題でしょう。


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