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11、仕事とは何か? What is work?


 とりあえず「芸術とは何か」の定義付けができたところで、今度は「仕事とは何か」です。

 困るのは、「芸術とは何か」は気持ちよく話を進めることができたのに、仕事の話となると、正直、気が重いことです。 私たちが定義した「芸術とは何か」については、少なくとも一般の美術好きな人たちからは反論はあまり出ないと思います。私としては、あまりに当たり前なことを言っているだけだからです。様々な芸術論があります。しかし、現代の美術が一般の愛好家からは関係ないところで動いている。それらを支える芸術論なども、これも一般の愛好家にとっては関係ないからです。ただ、専門家の方しか向いていない専門家は、この状況のなかで「王様は裸だよ」と言えないでビクビクしている。私は専門家ですが、あくまで向いているのは一般の愛好家なので、ところかまわず「王様は裸だよ」と言って回っている。だから堂々と根源的な定義をすることができる。

 しかし、仕事については、これは難しい。 世の大人たちは、景気にばかり気を取られて、お金のことしか考えられなくなっている。当然ながら若い人たちにもその影響はでます。一時の景気が良かった時を基準に考えて、今が寂しいことは事実でしょう。が、どう考えてみてもそのような景気の良さは二度と来ないことは明らかです。若い人たちにはそれが実感でしょう。しかしそこから考えなきゃいけないとなると、多くの大人たちからの反発が目に浮かんでしまいます。

 最近はあまり聞かなくなっていいことなんですが、一時、自分探しという言葉をよく耳にしました。耳にはしなくなりましたが、それはそれが忘れられたのではなく常識として定着してしまったとのかもしれない。そんな気がします。彼らにとっては、この不景気のなか、とりあえず仕事はしなくちゃいけないのは理解しているのですが、それは本来の自分とは関係ない、ただのお金稼ぎにすぎないもの。そう考えているのではないかという気がします。

 じつは私自身、アーティストであるのが本来の自分であって、先生をやるのはあくまでお金のためだと思って仕事を始めたという前科がある。そして、多少は作品が定期的に売れていたごく一時期を除いて、アーティストであることが仕事と堂々と言える時期がなくここまで来てしまったという後ろめたさもある。

 そしてもうひとつやっかいなのは若い人に口を出すインテリたちの存在です。いかにお金を楽に稼ぐかのノウハウ本がたくさん出版されています。それらは、若い人でもまともな人たちは相手にしないとは思うのですが、出るということは売れているということだとしたら、やっぱり心配です。

 いっぽう、学者や評論家のようなインテリが、大所高所からいろいろ言っています。様々な視点から現状を分析して、行き詰まっている社会をどう変えたらいいか。もちろんこれらの議論も大切でしょうが、それは社会を動かす立場の人、あるいは株などで一儲けをしようとしている人には意味があるかもしれません。しかし、目の前のお金や自分探しに縛られている若い人には実感はわかないでしょう。私は、ここは本来なら哲学者の出番だと思っています。低成長の高齢化社会、これはいわゆる先進国の多くの共通の問題です。宗教が力を失っている欧米、もともと宗教に力のなかった日本。ここでこそ哲学が人を救わなかったら、なんのための哲学か。と私が言ったところで、普通の人は何言ってるんだ?になると思います。神は沈黙を続けていますが、哲学者も沈黙を続けているからです。世間の人は、今アーティストがいるということをほとんど知りませんが、哲学者についてはまったく知らないでしょう。 じつは生きる基本を語ろうとする哲学者はいないわけではないのです。ただ彼らは自身を哲学者だとは言いません。思想家と言ってます。たぶん彼らは世間と隔絶した哲学の連中といっしょにだけはされたくないと思っているのでしょう。情けない。私は、確かにグローバリズムに媚びているアーティストがアーティストと呼ばれるなら、私をアーティストと呼ばないでくれと思うことがあります。しかしそれでは彼らの思うツボです。それでなくても、グローバリズムのアーティストなんか知らない世間の人にとっては、アーティストとは流行歌手のことになってしまっているのですから。

 そんな状況のなかで「仕事とは何か」を語ることの困難さです。言い訳はこのくらいにして始めます。

 仕事とは、「お金を稼ぐことと、アイデンティティーを確立する、この両面を兼ね備えたもの」です。

 言ってしまえば、これも芸術と同じようにじつにシンプルな当たり前な定義でしょ?「世の中そんなに単純なものじゃないよ。お前ナイーブすぎ」という声が聞こえそうです。言うやつの顔も浮かんでいます。いい友人なんですけどね。開き直るようですが、私はアーティストです。「王様は裸だよ」と言えるのがアーティストだと思っています。 お金を稼ぐとは、人が必要とする事物を提供することによって、ありがとうという気持ちをお金にして受け取ることです。 単純なことです。・・・なんだか自分が小学生になったような気分です・・・。しかし、私はこのナイーブな基本は絶対だと思っています。お金を稼ぐということが、お金さえ稼げれば手段は何でもいいとなったらどうなるか?振り込め詐欺、ブラック企業です。これらが大きな社会問題になっているということは、日本が来るところまで来てしまった証拠だと思います。単純でナイーブな定義ですが、大人たちはこれを自身を手本にして言い続けることが欠落したまま高度成長を達成してしまった。もし反省があるなら、今からでも遅くはないと思います。若い人たちといっしょに考え行動すべきです。

 私自身、気持ちはアーティストだと思いながらも先生をやることで生きて来られたという後ろめたさがあります。この後ろめたさが、私のおせっかいの原動力であり、この文章の内容のようなことを機会あるごとに語り続けているわけです。

 仕事を通じてアイデンティティーを確立するとは、これは若い人たちに声を大にして言いたいことです。あなたたちには、まだアイデンティティーはない。まあ個性のようなものはありますが。それだって萌芽みたいなものです。アイデンティティーは仕事をすることで培われるもので、あらかじめ先天的にあるものではありません。勘違いをしてはいけません。もし、あると思っているとしたら、それはただの好き嫌い、それも多くの場合食わず嫌いにすぎないものです。

 自分の思ったままを表現しなさい。自分の得意なもの好きなものを伸ばしなさい。教育の世界でしばしば耳にする言葉です。 私は、これらに反対です。思ったままを表現するには技術が必要です。どうしていいかわからないので、たまたま使った色が大人には予想がつかなかったりしたら、この子は独自の表現を持っていると勘違いをする。勘違いをされた子供は戸惑うだけです。思うためには言葉が必要です。少ないボキャブラリーからなんとか選んだ言葉が、たまたま大人には予想がつかなかったりすると、この子は独自の表現を持っていると勘違いをする。

 自分の好きなものは、放っておいても伸ばせます。それができないとしたら、それは本当に好きなものではないからです。それよりも若いうちは苦手とするものを克服するチャンスです。私は英語が大の苦手でした。絵を描くことは好きでしたが、デッサンは大嫌いでした。しかし、高校時代に自分にムチ打って英語を勉強したこと、デッサンを勉強したことが、現在の私にどれほどの貢献をしたかは理解してもらえるでしょう。

 これは食べ物の好き嫌いとまったくいっしょです。小さい子供にサザエやサンマをはらわたといっしょに食べろと言っても、それは無理でしょう。しかし、大人になってその味を知ってしまったら、はらわたのないサザエやサンマは考えられなくなるはずです。私たち大人は、はらわたをよけて食べている大人を見た時に、大人の楽しみを逃してもったいないなと思います。

 仕事は、たとえ自分の好きな得意な分野に就職できたとしても、好きなことだけを楽しくやっていられるということは、絶対にありません。むしろ、なんでこんなことを、と思われるようなことが人間を作る、つまりアイデンティティーを確立する手助けをするのです。私は、振り返ってみたら、先生をやっていて本当に良かったと思っています。日中の一番いい時間の多くを先生として過ごさなきゃいけない。目の前には私が手を差し伸べるのを待っている子供達がいる。先生をやっていると、いやでも組織について、親や地域を通じて社会と関わらなきゃいけなくなる。結果として、それらが私のアイデンティティーを作ってきたのだと思います。最後の数年間は、自信を持って先生をやることはアーティストの活動だと思えるようになりました。

 これは昔からある仕事の大部分、今の新しい仕事でも多くはあてはまることだと思います。 たとえば、大工さん。たとえ大工になりたいと思っても、最初から家を建てる仕事なんかはさせてもらえないと思います。掃除や道具の手入れ、先輩が仕事をしやすいように助ける。そんなものだと思います。やがて少しずつ技術を覚える。道具が使えるようになり、木の性質を理解できるようになる。いずれは注文主と設計事務所との調整も必要になるでしょうし、後進の指導にもあたらなきゃいけなくなる。そうやって人間として一人前になる。大工的な人格アイデンティティーが出来上がっていくわけです。

 農業。私たちの年代には、成田空港の反対闘争の記憶が残っていると思います。あの時代、革命を信じた若い人たちがあちこちで政治闘争をしていました。成田闘争もそのひとつとして語られることもありますが、私には異質なものに映りました。それはしぶとく闘争を続けていたのが若い革命家ではなく農民だったからです。その農民たちに感化されて生き方を変える若い革命家もいました。

 成田の農民が戦ったのは先祖から受け継いだ土地から離れたくないという思いが当然強いわけです。米を作るというのは、その土地土地にあった工夫がなくてはいけない。当然、土や水がその土地独自なものですし、様々なものを先祖から受け継いでいるわけです。こっちに同じ広さの土地を用意するから移ってちょうだい。はい。とはいかないわけです。そういう意味で、やはり農業をやるにも、大工になるように様々な経験を培って一人前になるという面があるということです。 そういう大工や農業のありかたは、現実的ではなくなってきているかもしれません。多くの仕事が分業化され、個人が全体に責任を持つことが難しくなっています。だったら、少しずつでもいい状態に戻す工夫があればいいということです。実際、そのような試みはあちこちで行われているようです。

 今、手元になくてどの本だったかわからないのですが、戦前の学者が書いた平安時代の文化の本に書いてあった言葉が、私は忘れられません。紫式部や清少納言が宮仕えをしたのは、そういう職に就くことが収入になるということと同時に人間としての成長をすることができたからで、これは現代の婦女子の職業とまったくいっしょです。といったニュアンスのことが書かれていました。戦前の男女平等ではなかった時代の言葉ですよ。

 江戸時代、文化を支えたのは町民階級です。彼らは、実際にものを作ることはありません。他人が作ったものを消費者に届ける中間の存在です。ある意味、彼らにはものを作ることで得られる成長の機会が少ないと言えるかもしれません。だからこそ、アートが大事だった。これは、現代の分業化が進んでしまっている人間と同じことが言えると思います。こういう人にこそアートは必要であるはずです。 そう考えれば、アートに対する需要はあるということです。ただ必要な人自身がその必要性に気がついていないだけです。問題は、サンマやサザエにはらわたはいらないと開き直る若い人が増えていることです。この問題は脇道ではすまないので、機会を改めてやります。

 アートはアイデンティティーの確立には貢献するけど、収入に結びつかない。つまり仕事と呼べるには半分足りないということです。 需要を目覚めさせる作品を用意する。その作品を提供するシステムを作る。このふたつが、アートを仕事にする鍵になるでしょう。可能性がないわけではありません。需要は見えるわけですから。仕事はどんどん変わっています。10年前には存在しなかった仕事が次々と現れています。今ある仕事が10年後もあるとは限りません。これを私たちアーティストと愛好家はチャンスと考えるべきかもしれません。


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