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16、黄郁生論(1)


 廖修平について考えることは、今日アーティストとして社会のなかで生きることについて考えることでした。郭少宗を考えることはヨーロッパの波をかぶった後のアジアのアーティストについて考えることでした。黄郁生を考えることは、リアリズムについて考えるところから出発して、アートの根源的なありかたにまで考えを展開することでした。この3人のアーティストたちは、ある意味私の思索の触媒に使ったような感じですが、私の思索を深める内容を彼らの作品が持っていたからこそできたことです。この3人には感謝の言葉もありません。同時代に生き、同士として認め合うことができる幸せを思わずにはいられません。黄郁生論、また脇道だらけでますます長くなってしまっていますが、お付き合いください。

 私は運命論者です。どこか上のほうに誰かがいて、私の歩むべき道を、その道で出会う人物を用意してくれているとしか思えません。そのすべてが私を直接プラスに導くものとは限らず、時には私を傷つけることもあります。しかし、多くの場合それらも単に試練という以上の結果を私にもたらせてくれています。

 私の周辺の人は、私はいかにもアーティストという感じで、自我が強く、なんでも自らの意思で切り開いてきていると錯覚をしてくれています。が、現実の私は自主性の極端に弱いアーティストです。ある意味では近代のアーティストという概念では形容矛盾を体現しているような存在かもしれません。たまたまそこにいた。たまたま頼まれた。たまたまそういう流れになってしまった。まさにたまたまだけの人生みたいです。ただ、それらのたまたまにしっかり応えてきたという自負はあります。

 でもそのような生き方は、アーティストでなければ、ごくごく普通の生き方でしょう。理系の科目より文系の科目のほうが多少出来が良かったとか、消去法かで大学の進路を決めて、どこに自分の専門とつながるのかわからないけど、とりあえず就職をして、会社のなかで与えられた仕事をたんたんと続けているうちに、そこそこ会社のなかでの専門性というか立ち位置ができてきて、そのなかでやらなければいけない仕事を誠実に続けているうちに人間としても仕事の面でも少しずつ成長していく。私の場合は、つねに自分はアーティストだという意識を失わなかった、そこだけを除けば、まったく普通の人と同じです。なにしろ定年まで先生をやっていたんですから。結果として良かったことは、それぞれの場面で(多少の手抜きはあったかもしれませんが)そこそこ誠実に仕事をしてきたことが、人間としての成長=アーティストとしての成長につながったこと、それとふつうの人のために作品を作ってこそアーティストだという基本を身につけることができました。

 心ある他人が私に求めるもの、それは彼らがそうあってほしいという理想を私に求めるものだと思います。戦後、アメリカが日本国憲法を押し付けたように。こういった関係が成立するためには、あくまで敗戦後の日本にはそういった理想社会を実現できる可能性があるとアメリカが考えたからで、日本の側にもそれが乾ききったスポンジに染み入るように入っていった。私のキャリアはそうやって周囲の要求に応えることで築かれたものばかりです。ちなみに1955年生まれのアーティストの私は、憲法は私と同じようにナイーブで、だからこそアーティストであり憲法なのだと思います。

 私は1989年から90年の初めまでニューヨークに留学をしていました。ニューヨークのあとは半年ベルギーのブリュッセルに。この1年間に渡る留学は私に大きな出会いを用意してくれました。これらの出会いは私の運命を大きく変えることになるのですが、それらについては別の機会に。

 ニューヨークでは多くのアーティストに出会いましたが、そのなかに黄郁生がいます。小柄でいつも何かに困ったような表情を浮かべながらも、真面目で真剣だという空気をいつも湛えていたのが印象に残っていました。ただ、当時は深い付き合いには至ることはありませんでした。ですので、去年約25年ぶりに再会してから彼が私の運命を大きく変える存在になるとは、当時は全然想像もできないことでした。

 私は、現在メゾチントに可能性を感じています。恩師、廖修平がそうであるように、アーティストは成長に応じて作品は変化して当然、変化することで成長を牽引する、私はそう考えています。得意の色彩表現、装飾性、感情表現から白黒の世界に移るには大きな必然性があります。私にとっては。

 私は、ここのところ、ようやく大人になるということがわかりかけてきたという実感があります。60歳を過ぎて、ようやく、です。最近、日本では(たぶん世界中同じようなものだと思いますが)年齢7掛けと言われます。60×0.7=42歳です。正直こんなもんかなと納得してしまいます。「四十にして惑わず」という孔子の言葉がありますが、私は人間はいくつになっても惑うもので、惑うことを受け入れる、つまり惑わず、というふうに解釈しています。惑っていても、まあそんなもんだろ、です。

 私は、あちこちで引用しているのですが、日本人の大人の男性の憧れである西行が自身のベストだとあげている歌「風になびく富士の煙は空に消えて行方もしらぬわが思いかな」自分の思いの行方もしらない、それでOKという歌です。それで困らないの?困りません。寂しくないの?別に。むしろすっきりです。

 ただ私の場合、その次の「五十にして天命を知る」も、ここのところ実感しています。だから機会があるごとに(この文章もそれです)大人のアーティストについて語り、若いアーティストと、アートを必要としている普通の人に伝えようとしています。そして私自身がその証明としての作品を作る。これは「天命」だと勝手に受け止めています。

 ただこの先の「六十にして耳順う」はまだまだ実感は薄いですし、「七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」に至ってははるか彼方です。まあ4、50歳の天命に応えて行って10年20年たてば、やがてわかる日が来て、作品もたぶんまた変わっていくのだと思うと、楽しみです。

 さて、4、50歳の大人の作品を作るには、色彩表現、装飾性、感情表現を目標にするのではなくて、白黒の空間表現と細密描写が必要だと、今の私は考えています。至った先はメゾチントです。

 世界には、数はけっして多くはありませんが、大人のための芸術があります。レオナルドのモナリザ、長谷川等伯の松林図屏風、酒井抱一の夏秋草図屏風、これらは私にとって圧倒的です。これらに共通するのは、技術的な成熟と人間的な成熟とが高いレベルで結びついていることです。

 池野大雅、与謝野蕪村の何点か、晩年の富岡鉄斎の文人画。これらはもしかしたら精神年齢が60歳、70歳になって実感をこめて理解できる世界なのかもしれません。日本では、世界というと(じつに情けない話ですが)中国はほとんど視野に入っていません。私たちが学生時代に勉強するのは、西洋美術史と(その文脈で解釈された)日本美術史のみです。しかし中国には大人のための芸術がたくさんあります。南宋の馬遠や夏圭、元の時代の倪瓚、王蒙、馬琬。明の時代ではこの文人画の空気を感じさせない風景画を探すことのほうが難しいでしょう。

 音楽では、バッハの無伴奏チェロ組曲とシューベルトの最後のソナタ21番。この2つは圧倒的です。レオナルドにモナリザがなかったら、シューベルトに21番がなかったら、少なくとも私の彼らに対する評価は全く別なものになっていたと思います。

 さて、長い前置きに続いてようやく黄郁生です。

 メゾチントの大作です。もともとメゾチントは大きな作品に向いた技法ではありません。まず目立ての問題があります。ただ昨今の作品の大型化の流れを受けて、大作を目指すアーティストはそれぞれ独自に目立ての機械化をしています。作品の大型化については、またひとつ言いたいことはあるのですが、これはまた別なところで。

 私の場合は、特別に大きなものを作りたいという思いはないのですが、小さいものでも(年齢的な問題もあって)目立てにはできるだけエネルギーを使いたくないと思っていました。去年5月、私は台湾にいくつもの企画があって来ることになっていました。そんななか、黄郁生さんから「私を覚えているか?」というメールが来ました。もちろんです。「なら、うちの大学にも来てワークショップをやってくれないか?」スケジュール的には1日は大丈夫でしたので、台北から台南まで日帰りのワークショップに行ってきました。

 この時も、忙しいスケジュールを理由に断ったりしなくて本当に良かったです。台湾にはメゾチントのロッカーの刃を丸くして、それを自動で転がすすごい機械があるという噂は耳にしていました。それが黄郁生さんの大学にあったのです。私の想像をはるかに超えるすごい機械でした。見た瞬間、使ってみたい!

 ワークショップが無事終わったところで、学長先生に挨拶に行きました。そうしたら「うちの大学に客員教授で来ないか?」と誘われました。「来ます、来ます!」

 この丸い刃のアイデアは、もともとは鹿取武司さんのアイデアだそうです。ただこの機械をはじめ、空気圧を利用したプレス機や、学内にある様々な機械を、黄さん自身の工夫でどんどん改良しているようです。私が滞在している短い間でも、プレス機に圧力が両側からかかるように改良をしていました。鹿取さんもそうですが、黄さんもエンジニア的な側面を持っています。多くのアーティストが持ち合わせていない、しかしアーティストとしての才能です。レオナルドのタイプかもしれません。

 黄さんは、メゾチントを学生たちに教えるために始めたのか、彼自身がメゾチントに必然性を持って始めたのかは聞いてきませんでした。ただ、この大きなメゾチントの版との出会いは、彼の運命を大きく動かすことになったのだろうと思います。

 彼が目指しているものは、多くのメゾチントのアーティストが目指す、美しい黒い背景に浮かぶ立体の表現ではありません。もちろん彼の作品に描かれるモノはしっかりとした立体感、存在感を主張してはいます。しかし、彼の画面はそれらのしっかりとしたモノのあふれる豊かな空間のほうに主眼があります。と私は思います。

“To be or not to be”

 彼と作品について話をしている時に、キーワードとして “To be or not to be” をあげました。聞いた瞬間、思わず「なるほど!」と声が出てしまいました。これはまさに彼の作品を言い当てる見事な言葉です。シェークスピアに彼の作品を見せてみたいものです。ハムレットではこの言葉は謎を呼びますが、同じ言葉が世界の豊かさを表しつくしています。

“To be or not to be, that is the question”

ではなく、

“To be or not to be, that is the answer”

です。

 そこに黄さんがいようがいまいが、誰でもが出入りできる豊かな空間。

 私は今、東京のやや中心を外れた住宅地に立つ大きな病院の10階に入院しています。今現在、病室の窓の前のテーブルでこれを書いています。真下には並木にはさまれた小さな川があって、その向こうに大学の建物、大きなマンション、小さなマンション、小さな民家が続いています。高速道路を挟んでどこまでも同じような風景が続いて、その向こうに低い山並みが霞んで見えます。日本の街の景観については、悪口を言う人は多いです。たしかに個人の住宅の中身を考えると寂しいものはありますし、多くのマンションは個性のないただの箱です。が、統一感のなさを理由に美しくないというのは、それはおかしいと私は思います。私には十分美しく見えます。マンションも住宅もそこそこ清潔で、なおかつ生活の匂いがして、街には緑もけっこうある。統一感はないかもしれませんが、静かなリズム感はあります。私には、自分も目の前の世界につながる一部であるという実感があります。

 入院して数日過ぎたある朝、山並みの向こうに富士山が見えました。日本だ!です。江戸時代の浮世絵では、江戸の街並みの向こうに富士山が見えるものがやたらに多いですが、わかりますね。

 私は、この景色を眺めながら、与謝蕪村の「夜色楼台図」を思い出しました。

 安全な日本に住み、健康的な生活を送っていると、つい忘れてしまいがちですが、抗いがたい運命はやはりあります。私の場合は、死を意識しないわけにはいかない病気に突然なって、初めてそれを意識しました。その時、この風景は大きな救いになりました。大きなものとの一体感は、小さな人間には救いです。

 おそらくキリスト教のような一神教の社会では、教会での神との一体感が、あるいは神を前にした信者同士の一体感が、同じような救いになるのだろうと想像されます。

 黄郁生の架空のアトリエは、彼にとっての救いの空間なのだと思います。彼は大学の先生として、台湾版画協会の会長として、超多忙な生活を送っています。私と同年代の彼は、もうけっして若くはありません。そんななか、ちょっとした空いた時間があると、版をいじっています。私などが見ると、どう見ても完成しているように見えるのですが、いつまでもいじり続けている。

 これはシューベルトが21番のソナタを作り上げた時の境地なのではないでしょうか。


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