17、黄郁生論(2)
リアリズムは、いつ何のために生まれたかをもう一度考えてみましょう。
リアリズムは、遠近法による空間表現と明暗による立体表現とで成り立っています。これらの技法はルネサンスの時代に発明されたことは、専門家なら誰でも知っている事実です。
ただし、何のために生まれたかについては、これは大きな問題です。私たちは、ルネサンスは中世のキリスト教の束縛から逃れた人間中心の新しい時代だと思い込んでいます。リアリズムは、それまでは神にとっては記号にすぎなかった自然や人間を、人間自身が実際に見えるように、つまり人間を中心にして解釈し直すために生まれたものだと思っていました。
ルネサンスの時代はまた征服と発見の時代でもあります。アメリカ大陸の発見もガリレオの地動説もこの時代です。これらも人間が神の束縛から離れて外の世界に興味を持つようになった結果だと教えられてきました。
そうでしょうか?
遠近法と明暗によってリアルな表現が可能になりましたが、それを最大限に生かすために油絵が発明されます。それまでの絵を描く技術は、フレスコかテンペラです。フレスコは壁画の技法です。壁にしっくいを塗って、それが乾く前に水に溶いた顔料(絵の具のもとになる色の粉です)を塗るものです。想像がつくと思いますが、乾くまでという時間制限があるのと、その制限から一度に描ける面積は限られてしまいます。部分的に完全に仕上げたものをつないでいくのですから、これで大きな絵を描くには相当な技術が求められます。テンペラは祭壇などの板の上か、祈祷書のような羊皮紙の上に描くための技法です。基本的には顔料を卵の黄身で溶いて描くのですが、絵の具がまったく不透明なので、明暗のグラデーションを描くのには向いていない技法です。これらに対して、油絵は透明なので明暗のぼかしが描きやすい。また乾燥したあとに何度でも描き足すことができるというメリットもあります。発明したのは北方ルネサンスのファン・アイクとされていますが、これは瞬く間に南方のイタリアに伝わります。
では遠近法と明暗で画家たちは何を描いたか。ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂に聖書の物語を、レオナルドはモナリザ以外では「洞窟の聖母」「受胎告知」、ラファエロはたくさんの聖母子像を、ファン・アイクは「神秘の子羊」、グリューネバルトは磔刑図。キリスト教関係ばかりです。
この時代、肖像画もたくさんあります。モナリザもそうです。なんでか?神は自らの姿に似せて人間を作りました。神は人間と同じ形をしているということで、ルネサンスの画家たちは人間をモデルにリアルな神を描きました。そんなに人間をリアルに描けるなら俺も描いてくれよ、ということで生まれたのが肖像画だと思います。
発明と発見も神が作った世界の豊かさ、素晴らしさを確認することが目標だったとも考えられますし、アメリカ大陸の発見もキリスト教の威光を広げることが、少なくとも建前としての目標だったはずです。
中世とルネサンスは地続きだったと考えるほうが納得できることが多いのではないでしょうか。表面だけ見れば、ルネサンス以後と以前には大きな断絶がありそうに見えますが、精神的には大きな違いはないのではないでしょうか。
ルネサンスには古代ローマ、ギリシャの文化を研究する人文主義者ヒューマニストがいます。キリスト教誕生以前の人間中心の文化を研究するということは、キリスト教の束縛からの離脱を意味するのではないかと、つい私たちは考えてしまうところです。しかし、もしそうであるなら大きな変革、フランス革命のような大きな変革があっていいはずです。あるいはその萌芽になるような。ありません。宗教革命に、もしかしたらどこかでつながるのかな、という程度です。実際は、日本で仏教が入って来た時にそれまでの神々を仏教の一部だとする本地垂迹説で辻褄を合わせたようなものだったというのが現実でしょう。
人間と人間の住む世界をリアルに表現したいと思った時、遠近法と明暗表現が生まれたわけですが、彫刻はどうでしょう。イタリアは古代ローマがあったところです。ローマ時代のリアルな彫刻がゴロゴロその辺にあったわけです。これを真似すればいいんだ、です。私はヒューマニストが古代ローマに興味を持ったのは、このあたりが動機だったのではないかと思います。
絵画も突然変異ではありません。ジョットを見れば、技術的には中世に位置付けられるかもしれませんが、あの豊かな感情表現はルネサンスが目指したものでしょう。
では、なぜルネサンスが生まれたか。
それはヨーロッパが豊かになったからです。中世は約千年続きますが、前半と後半では全然違います。前半は文字通り暗黒の中世です。キリスト教は、せっかくの豊かな古代ローマの文明を完全に捨て去ります。それがどのくらい徹底したものであったか。古代ローマの記憶を完全になくしたキリスト教徒は、ローマ時代の水道橋を見て、あんなものは人間が作れるはずはない、あれは悪魔が作ったものだ、と考えたそうです。
ローマ時代には、アラブ社会とは均衡が保たれていました。ローマの文明を捨てた中世は、このバランスが崩れた時代です。アラブ社会のほうが圧倒的に高い文明を持っていました。つまりキリスト教社会にとってアラブは巨大な脅威だったわけです。地中海は完全にアラブに制圧されて、沿岸地域はたえずアラブの襲撃にビクビクしていました。ちなみに、そんななか大きな船が入って来られないようなラグーンに町を作ったのがヴェネチアです。貧しい人々は神にすがって生きるしかありませんでした。
それがだんだんと豊かになっていきます。アラブとの均衡も取れるようになります。十字軍が生まれるのは、均衡が取れるようになったからです。中世後半は、豊かになったヨーロッパがルネサンスへの助走を始めた時期と言えるでしょう。むしろ精神的に求めていたものを実現したのがルネサンスだとも言ったほうが正解かもしれません。
建築を見てください。ロマネスクの建築は装飾が少なく重厚で、奈良の東大寺や唐招提寺のような神聖な雰囲気があります。それが次の時代、ロマネスクとルネサンスに挟まれるゴシックはどうでしょう。大きく空に向かい建物の表面は装飾でいっぱいです。むしろ次のルネサンスの建築が古典的で落ち着いた感じがします。これは何を意味するか。私は、この空に向かう豪壮な建築はルネサンスの精神を先取りしたのではないかと思っています。
ミケランジェロの壁画で有名なシスティーナ礼拝堂の外観は、中の壁画の壮麗さに比べて、じつにあっさりしたものです。もちろん礼拝堂であって大聖堂ではないので、それはそうそう派手にするわけにはいかなないのでしょうけど。私にはミケランジェロの壮麗は、ゴシックの壮麗に似合うと思うのですが。
ルネサンスを中世の側に引き寄せると、むしろ大きな変革はバロックでしょう。後期のルネサンスのティントレットやバロックの方向を決定付けたカラヴァッジョを見れば、モチーフは宗教的なものですが、見世物というか、観客を意識したドラマに主眼が移っていることがわかります。世界は相変わらずキリスト教が支配している。しかし、キリスト教は貧しい庶民の救いの場から、庶民に娯楽を提供する場に変わったのだと思います。とくにティントレットが活躍したのはヴェネチアです。海運で栄えたこの町は、音楽の町でもあります。
このことは、音楽のほうが理解しやすいかもしれません。私のような素人には、中世のグレゴリオ聖歌とルネサンスのポリフォニーの合唱曲との違いよりも、ルネサンス音楽とバロック音楽との違いのほうが明らかに理解できます。もちろんルネサンスの多声音楽の豊かさは、グレゴリオ聖歌とは全然違うことはわかります。しかし、どちらも声だけの音楽だという以上に向かっているベクトル(敬虔な祈りです)には違いがないからです。それに対して、ヴェネチアのルネサンスからバロックへの移行期のモンテヴェルディの「聖母のための夕べの祈り」の鮮烈さは、現代に生きる私たちにも十分想像できるものです。私も初めて聴いた時には、まさにのけぞるように驚いた記憶があります。写りの悪い白黒テレビしか知らなかった人が映画館に行って大きな画面で画質のいいカラー映画を見たような違いがあります。子供のときの私です。私はこの経験から映画が人生の宝になりました。脇道ですが。海運で栄えたヴェネチアは豊かです。庶民は娯楽を求めています。
当時は、オペラは王侯貴族かお金持ちのための娯楽で、庶民には縁のないものでした。しかし同じようなものが教会に行けば誰でも楽しめる。ヴィヴァルディの宗教音楽を聴いた時には本当に驚いたものです。知らないで聴いたら、甘く切なくきれいなラブソングです。カトリックでは歌詞はラテン語の決まったものしか使えないので、武器はあくまできれいなメロディになります。バッハのマタイ受難曲は、ドイツ語です。ふつうのオペラよりもはるかにドラマチックで心をわしづかみされます。ちなみにヴィヴァルディは聖職者でしたが、宗教音楽よりも圧倒的に器楽曲、それもコンチェルトをたくさん書いています。海の男の町であったヴェネチアには孤児がたくさん産まれます。そういった孤児のために捨て子養育院というものが作られていました。ヴィヴァルディはそこの責任者でした。子供たちが大人になって自立できるように音楽教育をおこなっていました。子供たちのオーケストラを作って、そのオーケストラのために協奏曲をたくさん書いたのです。多くの子供たちに光があたるようによくあるヴァイオリンを独奏にしたものばかりでなく、ファゴット、マンドリンのためのものもたくさん書いています。これらも楽しいですよ。このオーケストラのコンサートはヴェネチア名物だったそうで多くのお客を集めたようです。
これは今日の教会でもそうです。アメリカのゴスペルもそうですが、教会の礼拝はほとんどコンサートです。平和な時代、楽しくなければ庶民は行かないですよね。この流れがバロックに始まるのだと思います。
つまり、市民革命で個人が神を捨てるまでは、中世からずっとキリスト教は健在だったということです。ルネサンスで中世の束縛を離れ、人間性に目覚めたというのは、これも近代の側に立つ価値観が作った歴史の陰謀です。
さてリアリズムに戻ります。
リアリズムが、神が作った世界を正確に再現するために生まれた。これは神が作った世界を賛美するため、と言い換えてもいいかもしれません。となれば、宗教画以外の絵画に対する私たちの解釈も考え直したほうがいいかもしれません。
日本で、ルネサンスから近代を迎えるまでの間の画家で、一般の愛好家の間で最も人気のあるのはフェルメールでしょう。専門家は、それぞれ専門という色眼鏡をかけてしか物を見ることができません。専門家にはそれぞれ言い分はあるでしょうが、あくまで一般の愛好家です。
フェルメールの数点は、美しい時間が豊かな空間に氷漬けにされ、永遠化されています。豊かな世界のなかにあるささやかな幸せ、手紙を読む、恋人の訪問、注がれる牛乳、私たちはこれと地続きの世界に生きていることを発見することで、幸福を共有することになります。
何が地続きであると感じさせるか。それは描かれているもののリアリティです。幸福な娘たちは、豊かなに装飾された室内にいます。幸福な娘たちはリアルに描かれていますが、印象としてはスナップショットです。それに対して室内の装飾は、写真では決して追いつけないリアルな質感を描ききっています。
黄郁生の室内には、幸福な娘たちも黄郁生自身も描かれてはいません。しかし、リアルな立体表現の可能性を極限まで生かすことができるメゾチントの技術で、すべての存在が愛情を込めて描ききられています。フェルメールの室内が豊かな生活の象徴であったのと同じように、黄郁生の室内のものは黄自身のもの、あるいは黄自身の理想とするものであふれています。それぞれのものは、まさに舐めるように描かれています。ですので、黄自身いつまでも舐めて味わっていたい、だから他人が見ればとっくに完成しているにもかかわらず、気がつくといじっているわけです。フェルメールと同様に、写真のような光学的なリアルとは別なリアルです。いや、フェルメール以上にものたちに対する愛情が深い分、幸福な娘たちをスナップショットのように入れる必要はないわけです。
これを言うと反発があちこちから飛んできそうですが、フェルメールの作品のなかで傑作と呼べるものは数点しかないと私は思っています。多くは、当時流行していた風俗画といっしょです。当時オランダでは、男が女をたぶらかそうとしていたり、酔っ払いがくだを巻いていたり、くだらないモチーフの風俗画が山のように作られています。山のように作られたということは、需要があったことを意味します。不思議ですよね。
オランダの隣、同じオランダ語を話すフランドル、今のベルギーにはブリューゲルがいます。フェルメールより約100年前、ルネサンスの時代です。彼も当時の庶民の生活をたくさん描いています。子供たちが遊んでいたりケンカをしていたり、大人たちは仕事をしていたり酔っ払っていたり、全然美化されずにむしろ滑稽味が増すように描かれている。私たちは、これらで当時の庶民の生活が垣間見られて興味深いわけですし、今日と変わらない庶民の生活に共感をします。しかし、考えてみてください。ブリューゲルもたくさん描いています。つまり需要があったということです。
フェルメールの時代、オランダは空前の美術ブームに沸いていました。様々なチューリップや花々が描かれました。海の幸山の幸があふれる静物画。物語の背景ではない独立した風景画が誕生するのもオランダです。豊かな生活を象徴する静物画や美しい風景画に需要があることは、今の感覚でも自然に理解できるでしょう。ただ花や静物画の多くは、今の私たちの感覚からすれば明らかに過剰です。モチーフをバランス良く構成して、品のいい画面にすることは、家のなかに飾る装飾ということを前提にすれば当然なはずです。
そう考えると、風俗画の下品なリアリティというのも同じ根だと言えるかもしれません。オランダはヴェネチアがそうだったように海運と商売の国です。鎖国の日本が唯一交易をOKしたのはオランダです。豊かにはなっているかもしれませんが、海の仕事には危険が伴います。さいわいオランダはほとんど巻き込まれないですんでいますが、17世紀はヨーロッパ中でしょっちゅう戦争をしていた時代です。まだ疫病はあるし、魔女裁判もあるヨーロッパの生活には、死はたえず存在する現実だったはずです。なにより子供の死亡率は現代の私たちには想像ができない高い数字です。
脇道ですが、世界的に見れば、私は20世紀は人類の長い歴史のなかで人間が一番不幸な時代なんじゃいかと思っています。核を発明してしまった、環境を破壊した、それまで狭い世界でそれなりに充足していた後進国をよけいなお世話でかき回してしまった。それらの不幸を横目に現代芸術は本来の役割を捨てて学問になってしまった。
唯一の20世紀の成果は医学の進歩じゃないでしょうか。子供の死亡率は19世紀までの世界とは比べものにならないでしょうし、私がけっこう重篤な癌を患っていながらノンキにこのような文章を書いていられるのも進歩した医学のおかげです。
子供の死亡率だけでなく、これは現代でもそうですが世界は不条理にあふれています。豊かで平和な社会に生きるオランダ人たちは今日の先進国に生きる私たち同様、現実的であったはずです。彼らは宗教にではなく、自らの生活を肯定して、自分たちはその一部であることを再確認することで、安息を得ていた。そうは考えられないでしょうか。私が、病院の窓の景色を見て、統一感がなく美しいとは言えない風景に自分がつながることで癒されたという構図と近いものがあると思います。
そう考えると、あの夥しい数の静物画、風俗画は、私たちがお正月に神社で買ってきて部屋に飾っておくお札や破魔矢のようなものと考えたほうがよさそうです。過剰であること、豊かであることは、祝福です。各家庭に最低1枚、おまじないだとしたら、もっとたくさん飾っていたかもしれません。たくさん残っていて当然です。
だとしたら、あの大量に残っている過剰な作品を、近代的な美意識で価値を測ろうとするのは間違いだということになります。
祝福という機能を満たしながら、時代を超える作品を数点ですが残すことができたフェルメールは幸福な画家だったと言えると思います。彼は宿屋の主人であり、裕福な義母の援助もあって、職業画家として量産をする必要がなかったという幸運に恵まれました。描く時間も考える時間もあったからこその傑作です。
ここで私が個人的にずっと好きだったヴァン・ダイクについて。ヴァン・ダイクはフェルメールとほぼ同時代の当時の人気画家です。画家として商売の心配のなかったフェルメールが故郷のデルフトからほとんど一歩も出なかったのに対して、ヴァン・ダイクはベルギーのアントワープに生まれて、当時の超人気画家だったルーベンスの弟子から出発して、イタリアで修業して、イギリスで活躍しています。バッハが生涯ドイツから一歩も出なかったのに対して、同じ年のヘンデルがイタリアで修業してイギリスで活躍したのと似ているかもしれません。日本ではベルギー人としてアントン・ヴァン・ダイクなのにイギリスに帰化したヴァン・ダイクはアンソニー・ヴァン・ダイクですし、日本ではゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデルですが同じくイギリスに帰化したヘンデルはジョージ・フレデリック・ヘンデルです。
ヴァン・ダイクがイギリスで肖像画家として大活躍をした影響で、イギリスといえば肖像画という流れを作りました。宮廷画家として活躍するということは、ヨーロッパ中から注文が殺到することにつながります。私はヨーロッパの多くの美術館に行きましたが、どこに行ってもヴァン・ダイクはあります。どれもいいです。肖像ということで、たぶん描かれたモデルに似ているのでしょうが、当人を知らない私たちには誰もが敬虔なキリスト教徒なんだろうなという印象です。この絵が描かれたモデルの屋敷に飾られることは、これはやはりおまじない効果ではないでしょうか。近代の価値観である画家の個性、希少性、そういう面ではフェルメールが今日人気があるのは当然ですが、当時の価値観から見直してみればヴァン・ダイクは偉大な画家として評価されなければいけません。