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18、黄郁生論(3)


 神が作った世界を確認し、再現するためにリアリズムが生まれ、現実を豊かなものとして祝福する絵画が、人々の救いになる。ここまではいいですね。ただ何からの救いかを考えなければ、アートは何をすればいいかの解決にはなりません。今日も1日頑張った。疲れた身体を癒す。そういう癒しを目的としたアートが必要なことはその通りですが、フェルメールでは役不足です。不条理に対抗するための絵画を私は祝福と言いました。

 祝福の反対語は呪いです。つまり絵画の攻撃対象は不条理以上の大敵「呪い」です。不条理は人を困らせるし、悲しませもします。しかし呪いは具体的に人を傷つけます。この呪いに対抗するのは教会や宗教的なものだろうと考えてしまいますが、教会に奉仕してきたアーティストは教会を離れた仕事でも自らの仕事の意味をわかっていた。そうは考えられないでしょうか。オランダの世俗的な絵画を作り続けた画家たちは芸術的な完成度よりもおまじないの効果を優先した。

 バッハの主な仕事は教会への奉仕です。だからこそバッハはわかっていたと思います。バッハの器楽曲も同様の機能を担っています。バッハも過剰ですよ。

 現代の日本は、17世紀のオランダ同様豊かさと平和を謳歌しています。医学が進歩した分、こちらのほうが天国度は高いでしょう。しかし、多くの人が不条理に悩み、呪いに苦しめられています。しばしば起こる繁華街での無差別殺人事件や、多くの人が経験するいじめや虐待、私は、これらは呪いだと思っています。もしかしたらテロもそうかもしれないし、私の癌もそうかもしれない。

 またまた少々脇道ですが、呪いについて。人は不条理を前にすると、もちろん困ります。なんでオレが・・・でも、たいていは何て運が悪いんだと嘆く程度です。しかし、それが度を過ぎると、何か誰か悪魔のような第三者がいて嫌がらせをしているとしか思えない。私は、そういうレベルの不条理を呪いというふうに考えます。私自身、これは呪いだと経験したものはいじめとよく似た構図でした。呪いを生んだ人たちには呪ってやろうという悪意はなくて(なかったと思います)あくまで教育的な気持が出発でした。私としても自分が悪かったという自覚がありました。それがエスカレートするのです。彼らは私を決定的に傷つける思いはなかったと思います。あくまで反省を促す教育的な行動に終始していたと自分たちは思っていたことでしょう。

 幼児虐待もいじめも動機は教育です。被害者に共通しているのは、自分のほうが悪いという意識です。私の場合もまったくそうでした。世間ではいじめにあう子供にも何らかの問題があるのではないかと考えがちです。それは(も)正しい。ただ正論は決して被害者を救うことにはならないということは肝に銘じるべきです。自分が悪いと思っている子供に、やはりあなたにも問題があったのね、の優しいひとことは子供の命を奪う引き金になります。自殺した子供が、なんで自殺をしたかを調べても原因がわからない。なぜなら周囲の子供たち、大人たちは善意こそあれいじめているという自覚は全くないのですから。

 呪いからの解放にはふたつの方法があります。

 ひとつは呪い自体の転換です。多くの良薬の原料が毒薬であるのと似ているかもしれません。日本にはじつに上手な方法があります。神様になっていただくのです。学問と出世を成し遂げられずに呪いに負けた菅原道眞には天満宮という神になってもらい、人々の学問を導く神としての役割を果たしてもらう。鬼子母神(仏教の守り神)や将門(神田明神に祀られ江戸の守り神になっている)、おそらくそのタイプの神様は世界中にたくさんひしめいているのではないでしょうか。一神教では難しいのかな・・・

 もうひとつは、肝心の被害者の救済です。

 愛に満ちた世界は広大で、お前はその豊かな世界の一部であるということを教えることです。ここで芸術の出番があります。

 日本には、触らぬ神に祟りなし、君子危うきに近寄らず、ということわざがあります。呪いと戦ってはいけません。呪いの思うつぼです。悪魔と戦う天使という構図はハリウッド映画の十八番ですが、被害者を救う何よりの手は、離れることです。取り憑かれってしまっている人にはじつはそれが大仕事だということはわかります。ですが、離れて決して近づかないことが絶対です。せっかく禁煙、禁酒をしたのに1本だけ、1杯だけ、それが命取りなのといっしょです。アートは、そんなの気にしないでこっちの豊かな世界の仲間になりなよ、そういう世界を提示してくれるものでなくてはいけません。フェルメールに浸る時間、バッハやシューベルトのソナタ21番のような長大で豊かな世界に浸る時間。これは現実とつながる天国の時間です。お前は、酔っ払ったり、女の子にちょっかいを出したり、情けないやつだけど、お前は今いる世界に認められているんだよ、です。

 フェルメールと印象派の人気は不動のものがあります。一般の愛好家にとっては、ルネサンスだろうと印象派だろうといいものはいいのであって、時代や主義主張なんかはどうでもいいのです。よく専門家は解説なんかいらない、ただ見て感じればいい、などといった意味のことをよく言います。が、そう言う専門家には、この一般の愛好家がフェルメールと印象派を良しとする、その意味がわかっているのでしょうか。わかっているのなら、フェルメールや印象派が一般の愛好家にどういう働きをしているか、その機能を果たすには自分はどういう作品を作ればいいかがわかるはずです。・・・ということは彼らはわかってないですね。

 印象派の人気は時代を超えて不動です。画商という商売が誕生したのは印象派の作品の需要が多かったからです。つまり印象派は誕生してから150年にわたって、一般の愛好家に愛され続けてきたということです。フェルメールが一般の人気を勝ち得ることができたのはつい最近のことです。私が敬愛する酒井抱一が琳派の重要画家と位置付けられたのもつい最近のことです。安井曾太郎や梅原龍三郎は忘れられようとしています。

 自然を美しいものとして描く。もしかしたら印象派の画家たちは、ものが見えるのは光がものに当たって、その反射の光が目に入るからという理論を、点描という方法に単純に置き換える作業をしていただけかもしれません。しかし完成した作品は、見る人にとって自然に対する祝福となります。見る人は、自分たちはこのように美しい世界に自分たちは生きているんだという祝福を受け取ることになるのです。

 中世のように誰もが貧しくて悲惨な生活を余儀なくされている時代には教会は有効だったでしょう。みんなが神との一体感を経験できる、その「みんなが」というのが教会の前提でしょう。しかし、豊かな社会が実現されると不条理や呪いは個人の問題になります。なんでオレが、です。これを言うと反発がたくさん来そうですが、なんでオレがと思っている人は教会に行っても一体感は得られないのではないでしょうか。むしろ、豊かな社会、美しい世界との一体感のほうが効果があるのではないでしょうか。17世紀のオランダであり現代の先進国です。

 では日本では。江戸時代の日本は、もしかしたらオランダ以上に意識的にこの機能は確立されていたと思います。もともと教会の縛りも救いもないのですから。浮世絵です。名前から浮世の絵です。浮世にすぎない人間社会の超前向きな肯定です。琳派も文人画も、世界の肯定であり人間の肯定です。肯定は祝福であり愛です。何より日本では、お茶の完成を見るはるか以前から、人間は美と規定された(つまり祝福された)自然の一部であるという哲学が生きる基本になっていました。

 ひとつ思い出しました。ヨーロッパの童話です。呪われて眠り続けるヒロインや、動物に姿を変えられたヒーローを救うのは、愛する人の口づけです。呪いの主体を退治するのではありません。ヨーロッパ人も根源的なところではわかっているんですね。

 さて、それでは現代ではリアリズムはどうなっているか。その可能性は。あるいはどうしなければいけないか。これらの問題がここから大事になってくるのですが・・・脇道だらけではありますが、黄郁生論として始めたリアリズムの考察とは別な問題に発展せざるをえなくなりそうなので、次回以降の宿題にします。

 じつは黄先生は、これら室内を描いたメゾチント以外に様々な作品のイメージを送ってくれました。木版はシルクスクリーンを使ってそれぞれの技法を生かした写実的な風景があり、ニューヨークで勉強した銅版の1版多色の技法を使った抽象作品にも素晴らしいものがあります。

 今回は、黄郁生を借りて私のリアリズム論を展開したいという目的のために、メゾチントに絞ってしまいました。総合的に黄郁生を論じる機会はあらためてということでお楽しみにしてください。


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Ⓒ Hiroaki Miyayama 宮山広明

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