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23、江戸の時間


 私は歌舞伎の大ファンでした。

 ほんとうの大ファンなら過去形はおかしいですね。私にとって生きることに直結するようなジャンルはクラシック音楽が一番。これこそが18歳の時から一貫した伴侶です。娯楽でもあり芸術でもあるというのは(ここまでの私のブログを読んで来られた方にはこの区別は意味がないでしょうが)読書と映画です。読書は中学生のころから、映画は高校生のころから、ずっと一貫しています。・・・じつは美術は高校2年生の時に体操部で怪我をしてからです。あの時怪我をしてなかったら美術に進むことはなかったでしょうし、まったく別な人生を歩んでいたと思います。

 歌舞伎を本腰を入れて見るようになったのはアメリカ、ベルギーの留学から帰った35歳からです。たぶん35歳から10年強の間は歌舞伎座のすべての演目の半分は見ているはずです。歌舞伎座の演目は、夏の8月以外は1日2部制でひと月間続きます。ですので、毎月(夜の部が多かったですが)どちらかに通えば半分は見ることになる。時には昼、夜両方見たくて1日いたり、2回通ったり、国立劇場、新橋演舞場、明治座などにも行ってました。

 なんで歌舞伎を見るようになったか。

 留学以前にも数回ですが、若い時から歌舞伎は見てはいました。が、正直自分の教養の幅を広げる以外の目的はなかったと思います。その時に面白さに気がついていたら若い時からファンであったはずですが・・・

 若い時からクラシック音楽はほんとうによく聴いていました。最近は聴くレパートリーは極端に狭くなっていますが(バロック音楽のレパートリーは広がってるかな・・・)、若い時はどんなものでも貪るように聞き続けていました。オペラも聴いていました。ただオペラは初心者にとって聴くだけで楽しむには苦しいものがあったので、できるかぎり映像付きで見られるようにしていました。今でこそDVDでたくさん見ることができますが、音楽室にあるレーザーディスクを見せてもらったり、ドイツ文化センターでやっていたオペラ映画の上映会には何度も足を運びました。ですのでニューヨークと言ったらメトロポリタン・オペラです。

 行きましたよ。たしか12本は見たはずです。ニューヨークの半年の滞在で8本。ベルギーに移ってからも、ちょこっと抜け出して、ワグナーの指輪4部作。パヴァロッティも見たし(本当に凄かった)、当時人気のキャサリーン・バトルもベテランのアルフレート・クラウスや新進(だった)ニール・シコフ。ヘルマン・プライとブリジッテ・ファスベンダーが出た「こうもり」。ちなみにファスベンダーはベルギーでもリサイタルがあって、日本に帰ってすぐまたリサイタルがあって1年で3回、違う国で見てます。おっかけですね。メトロポリタンが19ドル。ベルギーのリサイタルが1000円以下。日本のリサイタルがたしか5000円以上だったと思います。メトロポリタン、19ドル。2000円台ですよ。日本に来る引越し公演の10分の1か、それ以下です。安い席は当然舞台からは遠いですが、雰囲気はいいです。お上りさんの団体や、本当の通。席はほんとうに狭くて(アメリカ人も昔は小さかった)、奥の席に誰かが入ろうとすると、全員が起立です。でもみんな明るくどうぞどうぞ。素朴な期待感でみんなワクワクしてました。

 値段を考えて、日本じゃもうオペラばかばかしくて見られない・・・でもこの雰囲気は歌舞伎座といっしょじゃない?で、帰ってから歌舞伎座に行ったらもう完全に捕まってしまいました。歌舞伎座の安い席の値段はたしかやはり2000円(今はもっと高いですが)、お客の雰囲気もいっしょです。

 歌舞伎自体の何が面白かったか。これがわかるまでには1年はかかります。もしこれから歌舞伎を見てみたいという人がいれば、とりあえず我慢して1年間、毎月見にいくことを勧めます。1回見てわかるほど歌舞伎は浅いものではありません。たまたま映画を見に行ったらミュージカルだった。映画ってこういうもんなんだ、自分とは関係ないや。ですませてしまったらもったいないでしょう。映画は年中広告がされているし、テレビでも予告はやっているし、基本的にテレビでやっているドラマと大きな違いはありません。歌舞伎には、その当時の同時代を扱った世話ものがあり、その当時からしたら昔の話、時代物があり、もともとは人形浄瑠璃の演目であったものを人間が演じるようになった丸本物があり、踊りがあり、明治になってヨーロッパの演劇に影響を受けた新歌舞伎があり、これらを1回の観劇ですべてを見ることは不可能です。時代物の面白さをわかるには同じ演目を数回は見なくてはならないでしょうし、踊りの楽しさが理解できるようになったのは、見続けていた10年の後半になってからだと思います。

 じゃ、わからないものを見てて楽しいのか?これが楽しいんです。時間の流れです。とにかくノロい。もしかしたら観光で海外のきれいなビーチにいて、日が高い時間から夕暮れを経て、すっかり暗くなって星を眺める。そんな感じかもしれません。・・・私は海外にしょっちゅう出かけてましたし、海外での滞在時間はおそらく2年は軽く超えていると思いますが、きれいなビーチでのんびりって経験が全然ありません。これからしてみたいって思ってます・・・海外に行くには、行くところを一生懸命調べて、荷物をまとめて飛行機に乗って、そういう手順が必要です。これも大事なお膳立てです。歌舞伎座に行って、筋書きを買って、開演まで浅草みたいなお土産物屋を散策して、わくわくしているお客さんといっしょに席について。これも大事なお膳立てです。そして歌舞伎自体は、とにかくきれいで流れる時間はやたらにのんびりしている。これにはまったら、つまらない演目だって全然問題ありません。どうせわからないんだから居眠りも全然OKです。しばらくグッスリしたはずなのに目が覚めたら前と全然話が進んでなかったてのも・・・いいでしょ?帰りはよくわからなかった話を筋書きを見ながら復習をします。ああなるほどね。

 こうやって1年も見続ければ、わからないものも少しはわかるようになるし、同じ演目を違う役者が演じれば、役者にも興味が湧いてきます。勘三郎(私にとっては勘九郎です)との出会いは私の運命を変えるほどのものでした。同じ歳ということもあって、彼の目指しているものに大きな共感を持ちました。玉三郎の美しさは別世界です。しかし私にとっての女方のアイドルは福助で、写真集を持ってますし、「お夏狂乱」を見たあとにはテレカを買ってます。踊りが面白くなると三津五郎(私にとっては八十助)。江戸の空気といったら団十郎。猿之助の命がけの冒険。いつも緊張感満々の幸四郎と、あえて力を抜こうとしている吉右衛門の兄弟。若手では福助の弟の橋之助。私にとって歌舞伎の真髄は歌右衛門と勘九郎のお父さん先代の勘三郎。この2人を生で見ることが(それも最初は全然意識もせずに)できたのはまさに財産です。福助、橋之助のお父さん、芝翫。馬面のおじいちゃんが、15、6歳の娘を演じて、そこにほんとうに初々しい娘が見えてしまった奇跡は忘れようもありません。・・・こうやって話し出すと止まらなくなりそうです。

 私にとっての歌舞伎の最大の喜びは、勘三郎と同時代を生きているという実感でした。伝統をしっかり引き受けて、なおかつ歌舞伎の枠を広げることで新しい可能性を追求する。何より勘九郎自身の明るいキャラクターと芸を深めていこうという姿勢は、私にとって大きなエネルギーでした。

 その勘三郎が死んでしまって、踊りの面白さを教えてくれた三津五郎が死んでしまって、江戸歌舞伎の生き残りの団十郎が死んでしまって、はっきり言って私と歌舞伎をつなげる太い糸が切れてしまいました。歌舞伎座が改装で閉まってしまっていること、私自身が超多忙な生活に入ってしまって、歌舞伎への興味もガクッと減ってしまっていました。そうこうしているうちに福助が脳内出血で倒れて、3年たってもリハビリ中としかわからない・・・

 そんななか橋之助の芝翫襲名興行の知らせが入りました。そうだ橋之助がいたじゃないか・・・行きたい!

 実際には今の私の健康状態で歌舞伎に行くことはできません。悔しかったです。が、テレビでこの襲名興行のなかから口上と「熊谷陣屋」が放送されました。家庭で夜のゴールデンタイムの2時間、歌舞伎のためにテレビを独占することは不可能ですので、口上と「熊谷陣屋」の最初と最後だけしか見ることはできませんでしたが、これはほんとうに良かったです。熊谷陣屋は何度も見ているので、とりあえず最初と最後が見られれば満足です。口上のお祝い気分。新芝翫、橋之助はほんとうにいい役者になっていました。年季を重ねたベテランの熊谷直実はもちろん見応えはありますが、50歳の盛りのエネルギーあふれる熊谷直実は、ほんとうに素晴らしかった。こういう見事な芝居を見ると改めてリアリズムの多くのつまらなさを痛感させられます。現実とは違う時間が流れ、顔を赤く塗った上に隈取りをした誇張された表情。その感情の深さと人間の存在感の大きさ。これはリアリズムではけっして実現できるものではありません。ここではゆっくり流れる現実とは違う時間は、まったく過不足のない必然の流れになります。

 芝翫襲名と相前後して、本屋でたまたま杉浦日向子の単行本未収録の原稿を集めたという「江戸を愛して愛されて」という本が目に飛び込んできました。

 杉浦日向子は、私にとって人生の師です。私には師匠と呼びたい作家が3人います。彼女はそのひとり、というか最も大切な師匠でした。彼女の著作は、歌舞伎と並んで私に江戸の空気と時間を運んでくれるものでした。

 彼女は46歳の若さで死んでいます。彼女は私の3歳下です。が、彼女が死んだころ、私は超(超超)多忙生活に入ってしまっていて、多少のショックを感じたことは覚えていますが、忙しさにかまけて何もしないで時間は過ぎてしまいました。

 今、慌てて読み残した最晩年の著作と行方不明になっているものを漁っています。いいです。つくづく忙しさという字は心を亡くす。私は40台の終わりから、すべてを投げ出す思いで台湾に行く60歳まで、ほんとうに心を亡くしていたんだと痛感させられています。

 江戸の人たちは、あくせくしない。助け合うけど、深入りはしない。プライバシーなんて概念が入り込むはずがない長屋暮らしだからこそ、助け合うけど深入りしないという生活が当然になる。基本的にその日暮らし。娯楽の少ない時代、とくに自然を相手に積極的に娯楽を作り出す。俳諧がそうですし、茶の湯、月見に花見に、園芸に。それに歌舞伎に寄席。これらの娯楽の多くは現代のイメージでは年寄りのものです。

 江戸時代が何より現代と決定的に違うのが、亀の甲より歳の功。俳諧や茶の湯、盆栽、歌舞伎もそうですね、などは年季を重ねた年寄りにかなうはずありません。私は歌右衛門と先代の勘三郎を見てる。それだけで勝ちです。今の若者たちが不幸なのは、年を取ることに希望が持てないことだと思います。江戸時代の若い人たちは年寄りに見られることを目指しました。それは年寄りが尊敬されるんだから当然です。現代は、年寄りがいかに若作りをするかに腐心しています。若者にウケる年寄りはかわいいかおバカかどちらかです。いやはや見苦しい。私たちが若いころは、はやく大人になりたいってみんな思ったものです。それは江戸の名残りだったんですかね。今は、大人になりたくない、が主流です。当然そうなるでしょう。

 今の私は、べつに尊敬なんかしてくれなくていいから、せめてほっといてくれ、ですが。ひどい時代です。

 さて、江戸の時間についてもう少し具体的に。

 日本人は時間に几帳面だというのは世界的に知られた公認の特質のように言われます。そうですか?江戸時代を考えてください。江戸の人たちは腕時計はおろか家に時計はありません。江戸の人にとって最も短い時間の単位は四半時です。一時(いっとき)の長さは季節によって違いますが、だいたい2時間です。四半時はだいたい30分になります。1分でもなければ1秒でもありません。デートの待ち合わせ時間を決めても前後30分、1時間の範囲で会えればOKといったところだと思います。現代の私たちだと約束の時間に30分も遅れたら、どう言い訳しようか、です。が30分が最小単位、私たちは1分とまではいかなくても約束の時間を考えたら、時計の一目盛りは5分ですから5分単位になるんじゃないですか。

 こう考えると、歌舞伎に流れる時間がゆっくりで、私はその江戸の時間の流れに浸るために歌舞伎に行っていたわけですが、江戸時代のひとたちには特別にゆっくりには感じられなかった、という可能性はありますね。

 明治に開国してから日本人はどうも時間にルーズだというのが定評だったようです。それが変わるのは欧米に対抗する富国強兵意識がもとにあったことは間違いないでしょうが、時計屋の陰謀という説があるようです。ケーキの売り上げのためにクリスマスを、チョコレートの売り上げのためにバレンタインデー、最近のハロウィンも商売の匂いがムンムンです。これらは一旦定着してしまうと、あたかも伝統行事のようになってしまいますが、私が子供のころほんの50年前まではクリスマス、何だそれ?でしたし、日本人が時間に几帳面になったのはたかだか100年前くらいだと思います。

 これは若い人たちには申し訳ないのですが、私たちの世代は江戸に戻ることはそれほど難しいことではありません。クリスマスなんかなかった江戸の空気が、私たちの子供時代にはまだ残っていて、私たちはその空気を吸っていたということです。高度成長を目の前に控えた時代を描いた「ALWAYS3丁目の夕日」の庶民の生活は現代より江戸に近いって感じはしませんでしたか?

 深川江戸資料館は知ってますか?両国の江戸資料館が有名ですが、私は深川のほうが好きです。小さな美術館ですが、売りは江戸時代の深川の街並みが再現されていることです。まさにタイムスリップしたような感じです。ここでは長屋の部屋に上がりこむことができますし、火鉢や食器棚、商店にある大福帳などに手を触れることができます。師匠の杉浦日向子によりますと、深川は川向こうで日本橋や神田の長屋と比べればずっと広々しているそうですが。狭いですよ。この長屋の部屋に上がり込んで座っていると、なんともいえない安らぎを感じます。私の子供時代には、まさにこんな感じの家に住んでいる友達がいましたし、ここにラジオと電球があればそのままじゃないかって感じです。私が子供のころには洗濯機も、冷蔵庫も電気釜もありませんでした。信じられます?それらのない生活って。私は浅草の靴職人の息子ですが、物心ついた頃には葛飾の小さな一戸建てに越してました。新しい一戸建てもぼちぼちできてましたが、江戸からの長屋というより戦後のバラックの延長のような長屋があちこちに残ってました。

 深川江戸資料館に入って、60歳より上のひとたちが感じるのはノスタルジーでしょう。下の世代にとっては時代劇のセットにいるようなワンダーランドだと思います。

 私は、これは持論ですが、日本人が江戸を完全に捨てたのは、テレビが登場して、アメリカのホームドラマを見たことが理由だと思っています。私の子供時代がそうでしたが、ごくごく一部を除いてみんな貧乏でした。映画「ALWAYS」がそうでしたが、貧乏でいることに全然不満はありませんでした。明治維新があっても、第二次大戦があっても、庶民の感覚は江戸のままだったと思います。それを証明するのが住まいです。それが郊外の大きな電気製品にあふれた一戸建てに住んで、自家用車を持って、犬がいて。こんな相手と戦争したのか、勝てるわけねえだろ。俺たちもこっちだ。ということで庶民が江戸を捨てたことで、江戸は完全に過去になってしまうのです。

 つまり私たちの世代はギリギリ江戸の空気を吸っていたということです。

 ちなみに後に出会ったアメリカ人に聞いたら(彼女は私と同世代で名前はマリリンです)、あれらの番組はアメリカ人にとってもキャンペーンだったそうです。彼女は戦後アメリカ軍の払い下げの兵舎で生まれ育ったそうです。日本の長屋とぴったり一致します。お父さんが洗濯屋をやって、一生懸命働いて、やがて人を2人雇うようになって、郊外にテレビに出てくるような一戸建てを手に入れたそうです。しかし、今はいくら洗濯屋さんが努力してもそれは不可能だって言ってました。日本といっしょですね。彼女はイーストウッドの「父親たちの星条旗」と「硫黄島からの手紙」を見て、日本もアメリカもまったくいっしょだったって知ることができたと言っています。

 これもちなみに上のマリリンを紹介してくれたフランクは、「グローバリズムをアメリカのせいにするけど、一番の被害者はアメリカ人なんだからな。それを忘れないでくれ」って言ってました。そうですよね。貧富の差も一番ひどいし、あちこちに兵隊送って(彼らの多くは貧しい人たちです)、人殺しもするけどたくさん殺されて、精神的に破壊されてしまっている人も多い。日本もその仲間にわざわざ入る必要あるのかねえ・・・戦争も論争もどっちにも正当な理屈があります。理屈を前面に戦っていて和解は考えられません。理屈と米の虫はどこにでもつく(これは私の父親の18番でした)、って理屈をバカにしていたのは私たちの祖先です。若い者同士がいがみあっていたら、ご隠居が登場して、まあまあここは私の顔を立ててナカとらねえか?のご隠居になれないもんですかねえ日本は。おバカな若い者に尻尾ふるんじゃなくて。

 30年近く前のアメリカ留学ではもうひとつ大きな成果がありました。アメリカでの保証人になってくれていた、当時はアメリカが拠点だった廖先生が「スタジオに行かない時はヒマでしょ?」と言って芥子園画伝をくれたことです。芥子園画伝は中国清朝の時代にまとめられた水墨画の自習のためのテキストです。木の描き方、葉の描き方、岩の描き方、まさに基本の基本から発展的に水墨画に現れるモチーフの描き方が学習できるようにできています。もともとは中国で木版本として出版されていたものです。これを今の安っぽい印刷でペーパーバック風に製本したものでした。しかし、これを手本に実際に筆と墨で描いてみることはほんとうにいい勉強になりました。先生は本をくれただけで、実際に描く手本を見せてくれるわけではありません。いつもの廖修平流です。どう受け止めるかは弟子次第です。私の場合、ラッキーだったのは子供の頃からお習字をそこそこやってましたので筆を持つことに抵抗は全然なかったこともあって、これにははまりました。ニューヨークで一番勉強になったのが水墨画の描き方っていうのもおかしな経験でしたが・・・この芥子園画伝は日本に帰ってからも続けました。生徒と行く風景画合宿では、私は水墨で描いていたくらいです。

 アメリカでは廖先生が自宅のアトリエで絵ではなく、漢詩を筆で書いているところを見たことがあります。彼に言わせると人に見せるほどじゃないそうでしたが私の目では立派なものです。友人の郭少宗も自作の詩をサラサラっと書いて見せます。私もなんとかならないものかと思って、留学から帰ってから本格的にお習字を再開しました。ただし今度は、和様です。漢字は藤原行成と小野道風。道風の三体白氏詩巻、行成の白氏詩巻は何十回も臨書しましたし、かなの関戸本古今和歌集もずいぶんやりました。この時は校内の書道室を使わせてもらったのですが、同僚の書道の先生がまた素晴らしい先生でした。ほとんど何も教えてくれません。いい先生に共通しているのは、なかなか教えてくれないことです。ただ変なお手本を使うよりオリジナルを臨書するのが一番勉強になると言ってくれたました。

 じつは日本の書道の業界では、漢字は中国です。道風や行成は漢字でも和様です。漢字の業界ではあまり相手にされていません。弘法大師空海は尊敬されていますが(実際素晴らしいですが)、基本的には中国流です。和様が相手にされるのは仮名の業界です。しかし仮名は仮名ですから、ここでも道風や行成の漢字が表に出ることはありません。このあたりの住み分けはすごいものがあります。

 ですので道風や行成を勉強するには、実物の写真を印刷したものをお手本に、その文字の線を出すには筆をどう持ったらいいかの工夫からしなくてはなりませんでした。中国流の筆の持ちかたでは和様の線は出せません。同僚の先生は、時々眺めるだけでしたが、私が本当に煮詰まっている時にだけ、ちょこっとだけヒントをくれます。楽しかったです。

 実際ある程度見えてくるようになって、有名書家が作っている解説つきのお手本を見たのですが、言う通りです。フィルターを通して見たものを私たちに提供するわけですから、オリジナルの100パーセントの魅力が伝わることなく、現代的な解釈が加わっています。

 さて、ここからは私の決意表明です。

 専門家には技術の面では全然かなうものではありませんが、超多忙になるまでにやっていたお習字、芥子園画伝、それに台湾で作り始めた水墨につながるメゾチントの版画、それらをつなげていくことが、たぶん江戸の価値を現代に蘇らせる。私のこれからの課題になっていくはずです。最初はまず台湾で始めたメゾチントを完全に自分のものにする。10年間は版画中心になるかなあ・・・そのあいだに隠れお習字の稽古、芥子円画伝の研究、応用をひそかにつづけ、70歳すぎにはまた新しい形式を生み出す。わくわく。どうなるかは私自身全然見えてはいませんが・・・楽しみですね。


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