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24、現代のリアリズム


 まだまだリアリズムについては言い足りていません。

 現代、リアリズムはどのようになっているのか。

 台南の大学では大学院の理論の授業以外に3つの授業を持ちました。うち2つは学年の違う銅版画の授業で、どちらでもドライポイント(銅版の表面にニードルという太めの針で直接絵を描きます)で自画像をやらせました。版画の危ないところは技法が絵を作ってくれる部分があまりに多いので、技法に頼りすぎたり、技法自体を追求する方向に進んでしまいがちなところです。しかし版画も絵です。目で見える現実との格闘、つまり描写は画家としての基本だと思います。

 私が長年教えていた学校には、生徒の人数分の鏡が用意されていました。自画像をやるときには、単純にその鏡を配ればいいわけですし、鏡のそばでスマホを見ながら、なんてことをやったら私が黙っていないことは生徒もよく知っていたので、スマホは大きな問題ではありませんでした。

 台南の美術大学では、最初にいかに自分の目で見ることが大切かを話し、鏡を必ず持ってくるように伝えました。が、実際に持ってきたのは数人だけでした。「スマホがあるから大丈夫」。20歳前後の自意識過剰な子供達が相手ですから、なかなか他人の言うことを素直に聞けないということは、ある程度は予想はしていましたが。

 もうひとつの授業は色彩の授業だったのですが、色相、明度、彩度を彼らが使っている絵の具で実感させることをまずやって、応用とし風景画をやらせました。風景の実習に入る前に、雨が降っても困らないように学内の屋根があるところでいいところを探しておくように指示しました。で、その授業になって、説明を終えて、「さあ、行っていいぞ」。誰も動きません。スマホを取り出しました。真面目でいい子たちが多くて、すでに場所は見つけていましたが、スマホがあるから出る必要を感じていないのです。

 スマホを見ながら描かれた自画像は、すでにどこかで見たことのある人物のイメージのコピーです。私も学生のころ自画像を描こうとしたときには、ゴッホやゴーギャン、あるいは安井曾太郎や佐伯祐三の自画像、つまり過去の画家たちが描いた自画像がある程度頭のなかに下描きとしてあったことは事実です。中学、高校のころはそういう情報が少ない分だけ純粋に自分を見つめることができたのかもしれませんが、目も(これは頭脳といったほうがいいかもしれません)、技術も備わっていない子供には、深い追求は不可能です。むしろゴッホやゴーギャンの自画像は自己に対する認識の、画家としての方法を示唆してくれるものだったということが可能かもしれません。そこにそれらとは似ても似つかない現実の自分がいて、難しい油彩の技術の壁があって、それらを統合しようとする試みが、画家としての自分を育てるわけです。

 彼らの絵も、どこかで見たようなイメージばっかりでした。ただ画家、版画家のイメージはまったくありません。映画やドラマのポスターや、広告写真のようなイメージです。これはほんとうに驚いたのですが、彼らは鏡の代わりにスマホを使います。と思っていたのですが、スマホを覗いて見たら、ポスターのようなイメージはすでにスマホの上でできてしまっているのです。つまり彼らは、スマホのなかで彼らなりに目標になるイメージを元の自分が映った写真を加工して作ってしまっているということです。彼らは、そのできあがったイメージを銅版のうえに写していたのです。困ったことに、彼らの作品は悪くはないのです。それなりの完成度を持っていれば、こちらとしてはオーケーを出すしかありません。

 でも、これはすっきりはしません。

 ドライポイントは柔らかいとはいっても金属である銅に金属の針で直に線を彫り込む技法です。思い通りの線はなかなか引けません。思い通りの線を引くには作者の強い思いがなくては無理です。つまり線に個性や思いを乗せやすい、というか自然に乗ってくるものです。

 ところが、彼らの作品にはそういった線の痕跡がないのです。はっきりいって冷たい。ドライポイントという技法は、彼らにとってたんなる白黒の明暗の変化を作ることができる以上の意味はないのかもしれません。おそらくエッチングでもリトグラフでも同じような作品を作るんじゃないでしょうか。私は正直、彼らには可能性はないと思いました。

 私は常々言っているんですが(もしかしたらこのブログでも何度も)、すでにあるイメージ、あるいは自分が持っているイメージ、それらを完璧に100パーセント再現できたとしても、それはアートではないと思っています。自分では思いもしなかった発見があったり、何かのはずみ(おそらくは天の配剤)で100パーセントを超えた時、その超えた分こそがアートだと思っています。

 彼らはスマホのなかで自分の顔の写真を撮って、それをすでにあるイメージになるように加工してしまっています。授業では、そのできあがったイメージを単純に銅版のうえに移す作業をしていただけということです。少なくともスマホのイメージを銅版に移す作業は、彼らにとっては100パーセントであったものをドライポイントの扱いにくさで割引した形で再現するものになっていたはずです。私が可能性がないと感じたのは、このような作業がアートだと彼らが受け止めていたとしたら、けっしてアーティストとして成長することはないだろうな、ということです。

 ただ問題が残ります。スマホのなかで彼らは創作活動をしていたということもできるのではないかということです。どうなんでしょう?

 いっぽう、ほんの数人ですが正直に鏡に向かって、扱いにくいニードルと格闘していた学生もいました。彼らの作品の素晴らしさは圧倒的でした。それはドライポイントと格闘して生まれた線が生きていることはもちろんですが、自然とドライポイントの線の特徴を生かしたイメージになっていること。できあがった絵は生き生きとしています。私は、その作品自体の向こうに、その学生の可能性を確信しました。そう感じさせるのが100パーセント越えだと思います。おそらく彼ら自身も出来上がった作品から新鮮な感動を受けていたと思います。彼らのうれしそうな顔が語っていました。

 が、スマホ組も満足そうな顔でした。どうよ先生、いいでしょ?これは新鮮な感動というより、自分が憧れるイメージを自分の顔を使って再現できた満足感だと思います。

 以下は、私の意見です。ここで、あくまで私の意見と断っているのは正直自信が揺らいでいるからです。

 スマホ組の学生たちは、自己の理想とするイメージを記号化することで満足しているということだと思います。実際の風景には光の移ろいがあり風があります。実際の自分は理想の顔をしているわけもなく、その顔には目の前の自分の顔を再現するための真剣な格闘の感情が浮かんでいます。それらを静止した画面に再現するのは人間の工夫、解釈がなければ不可能だと思います。写真はどこまで正確であっても機械的に切り取った一瞬の静止画にすぎません。実際の風景と切り結ぶ面倒さ(喜び)、自身と向き合う困難さ(喜び)を捨ててデジタル画像の奴隷への道を自ら選択しようとしている。と言ったら言い過ぎでしょうか?

 さて、そのようなアーティストによって描かれた絵画が、はたしてフェルメールやオランダの静物画のような機能を果たせるか。フェルメールやオランダの静物画は、私たち見るものに現実はこんなにも豊かなんだと教えてくれます。彼らの絵は私たちが普段認識している以上にリアルだということです。つまり私たちの認識を100%としたら、それらは100%を超える情報を含んでいるということです。この超える部分はアーティストの目であり解釈です。これこそが、ヨーロッパが生んだ油絵の一番基本となる機能であって目標だったはずです。

 ですが・・・これはあとになって気がついたことですが、彼らはスマホがあるから大丈夫と言います。この「大丈夫」はスマホはたんに鏡の代用になるから、という以上の意味が彼らにはあるのではないかということです。自画像では、たんなるカメラとして使っているのではなくて、自分が作りたいイメージをスマホのなかで加工しています。これは一種の創造行為と言えるのか?ここで厳しいのは、私はそういうスマホで画像を加工する方法もわからないし、経験もないことです。

 私たちの世代、それ以上の世代にとっては現実を認識するということは、現実に向かい合うことでした。あなたは、何を当たり前なことをと思いますか?そう受け止める方は1955年生まれの私より年上なのではありませんか?

 今、電車に乗っていて、窓にしがみついて座席を反対向きに座っている子供を見ることがありますか?私は自分が車を運転するときは前を向くしかありませんから、クラシック音楽を流しながら音楽を楽しみながら運転しています。それでも外の風景は気になります。自分が運転しないでいいときは今だに景色をおおいに楽しんでいます。季節によって違う花が咲き、葉の色も違います。知らない町に来れば興味津々です。

 私の少年期は、ようやく家庭にテレビが普及し始めた時代です。まだテレビのない家もたくさんありましたし、見たいと思っても子供が見るような番組自体が少なかった時代です。ですので、テレビも見たし、マンガも読みましたが、遊びは基本的に友達とのアウトドアでした。アウトドアと言っても使うのは身体だけで、たまに使う道具は棒切れと空き缶くらいです。ビー玉やメンコといった遊ぶ道具もありましたが、それらにお金をつぎ込める子ばかりではありませんでした。今では誰もがビー玉やメンコ、ベーゴマを懐かしがりますが、これらを遊ぶには同じ年齢、同じような経済的な条件が揃わなければできないのが現実だったように思います。数個しかないビー玉やベーゴマでは楽しめるものではないですし、これらにはギャンブル的要素が強いので正直私はあまり好きにはなれませんでした。ときたま同世代で遊んでいても、悪ガキが割り込んできて根こそぎかっさらわれた思い出もあります。私には身体を使った遊びのほうがいい思い出になっています。たまに親に連れられて電車に乗る時は、割り込んじゃいけません、靴を脱ぎなさいと毎回叱られながら、窓の外の景色に夢中になっていました。自分の身体が基本的な道具であって、自分の外側に興味を持つ。そういう幼少年期があって、初めて自画像や風景画を描くことに意味が見出せるのではないでしょうか。

 次の世代はテレビ漬け、その次の世代はテレビとゲーム漬け、その次の世代はテレビとゲームとパソコン。今はスマホ漬けです。現実の認識方法は変わって当然です。ただ、これはいつも言うのですが、彼らを批判するのは簡単ですし、私もついつい口を出してしまうのですが、彼らの環境を変えてしまったのは大人であることを自覚しないといけないと思います。戦犯は私たちと私以上の年代です。

 最近、「君の名は」を見ました。じつに良かったです。若い2人の出会いを美しい景色を背景に描いています。現実の風景を加工しているのですが、細部に手を抜かず、美しく見えるように加工しています。美しい田舎と美しい都会は、蕪村の「夜色楼台図」と同じような、人間がその一部であるという祝福です。このような映画が若い監督によって作られたということは、そして若い人たちに熱狂を込めて受け入れられたということは、大きな希望になります。

 ただ音楽は、ダメです・・・ちょっと脇道ですが。私の耳はついて行けません。同じ時期に見た「ハドソン川の奇跡」では音楽がじつにエレガントでした。監督は86歳のイーストウッドですからね・・・「君の名は」は、アメリカナイズされた音楽だということに不満はありますが、世代によって音楽を聴く耳が変わるということを突きつけられる思いがします。これは「君の名は」に限らずほとんどの若い人向け、家族向けの映画のすべての音楽が、私にはやかましく聞こえてしまいます。

 ただ私たちの世代にとっても若い世代にとっても、シェーンベルクやブーレーズが耳に馴染むということは、これは絶対にないことでしょう。アーティストは心すべきです。

 最近、私は家ではほとんどバッハ、たまにシューベルト、車ではヴィヴァルディの宗教曲かオペラ、アトリエではジュズアルド(イタリアのフランク、マウロに教えてもらったんですが、凄いです)。ヴィヴァルディの声楽曲は、若い子の曲よりはるかにラブソングに聞こえます。じつは昔は箏曲、地歌も結構聴いていて、CDもたくさんあります。長唄は歌舞伎で生で聴くもんだと思ってCDはあまりありませんが。ここ数年、これらがCDプレーヤーに乗ることはほとんどありません。歌舞伎も行ってないし。・・・そういえばジャズも聴かなくなっているし・・・いやはや・・・忙しさは人間の幅を狭くしますね。

 さて話をリアリズムにもどしましょう。

 みなさんはホキ・ミュージアムに行ったことがありますか?写真のような超リアルな油絵を集めた美術館です。今の私は隠居状態なので、開館当時の熱狂が今でも続いているかはわかりませんが、この美術館について考えることは、現代のリアリズムを考えることにつながるものだと思います。

 ところが私はまだ行ったことがありません。できた時は超多忙、台湾から帰ったら、まず自分の目で確かめてみたいと思っていたのが病気で遠出ができなくなってしまって・・・実際に自分の目で確かめることをしないで論じることの後ろめたさはあるのですが、台湾でリアリズムについて考え始めてしまったもので、ここはいったん今の状態のなかでできる範囲で話を進めたいと思います。もしかしたら実際に行ってみたら考えが変わることもあるかもしれません。それはそれで楽しみですし、その時には変節ぶりをお知らせします。

 行ったことはありませんが、ネットのホームページでかなりの作品は見ることができます。また大きな書店にはこの美術館のコレクションの中核をなす作家たちの画集がたくさんありますし、若手も紹介されています。それらには一通り目を通しました(立ち読みです、本屋さんごめんなさい)。

 感想は・・・いいものはいい。よくないものはよくない。看板の森本草介、野田弘志、中山忠彦、磯江毅、諏訪敦・・・いいです。若手でしょうか、美人画の多くは、品がいいとは言えない。風景は、これは実物を見ないことには断定はできないのですが、場面の選択は悪くはない、だけど性能のいいカメラで撮った写真とどう違うのか。写真で撮ったイメージに見えてしまう。カメラが存在しなかった時代のリアルな油絵、元祖風景画家と言われるヴェネチアのジョルジョーネ、風景画の大流行を作ったオランダの画家たち(フェルメールも風景を描いてます)、フランスのコローや写実主義をうたったクールベ。それぞれが場面を選ぶだけでなく、それぞれの場面にふさわしい個性的な技術を持っている。あらためてホキ美術館の風景画を見て、思ってしまいます。

 いいものはいい。よくないものはよくない。それは単純に言ってしまえば人間性の問題です。ピカソや岡本太郎の人気が衰えないのは、美術史的な価値ではなくて人間の面白さがあるからです。ピカソが偉大とされているのは、ルネサンスから続いた二次元の平面上に三次元を表現するという伝統的な遠近法、明暗による立体感の表現方法を根本的にくつがえしたからです。と、専門家は考えています。岡本太郎は、ピカソなど西洋近代の影響下、日本の伝統であるわびさびを否定して縄文の力強さこそ日本の主流であると主張した。と、専門家は考えています。しかし、彼らの人気が衰えないのは一般の愛好家が認めるからであって、それは美術史上の価値とは関係なく、彼ら自身の人間的な魅力です。

 だからといってすべての美術、すべてのジャンルの芸術を、いいものはいい、よくないものはよくない、それは人間性の問題、そんなふうに結論づけるのは、芸術全般、すくなくとも美術を考えるうえで、それはまずいと思います。

 それを言ったら、屁理屈アートのなかにだっていいものとよくないものがあります。すでに専門家の間では古典と呼ぶべき作品、しかし一般の愛好家には専門家向けだと言われているロスコ。いいですよ。でもよくない。そういうことです。

 ホキ美術館の作品すべてに共通していることは、写真のようにリアルであることです。風景画以外もすべてそうです。リアリズムといっても、安井曾太郎や梅原龍三郎のようなものとは全然違います。といってリアルであることには共通しているフェルメールやレオナルドとも違います。どうしても比べてしまうのは写真です。

 いいんでしょうか?私にはわざわざ美術の可能性を狭めているように思えてならないのです。

 ホキ美術館は、屁理屈アートに対抗するために生まれた。そうだと思います。理屈じゃなくて目の前に見えるもので勝負しようという発想ですよね。

 私にはこの勝負するといいう発想が間違っていると思えてならないのです。勝負じゃなくて、間違った方向に向かってしまっている美術の流れを正当な場所に戻すというのが言い分かもしれませんが・・・それも勝負です。つまり同じ土俵に(リングのほうが正しい喩えかな)乗ってしまっています。それは西洋が生んだリアリズムを本流とする考えです。

 西洋のリアリズムを支えているのは合理主義です。ここにはすでに屁理屈が内在しています。その屁理屈の部分が徐々に主導権を得ることになっていくのが西洋の美術史です。こんな美術史をでっちあげたのは近代になってからですが。つまりリアリズムの原点に戻ったところでリングの端から端へ移動するにすぎません。

 超屁理屈に対抗するために超リアルを持ち出す、そういう方法です。

 もしこの流れで正解を見つけたいなら、極端ではなくてナカを取ることです。そうすれば安井曾太郎や梅原龍三郎をあたかもなかったかのような態度を取る必要もないし、私のような作品を作っている現代の作家にも立つ瀬があるというものです。なにより西洋の美術史では、印象主義がやはり頂点なのだということを認めることになるはずです。

 危険なのは、この超リアルこそが正しいあり方だと愛好家と普段は美術に興味がない一般の人たちに刷り込んでしまうことです。何が描いてあるかわかる。それも人間業とは思えないテクニックで。屁理屈アートがグローバリズムのおかげで市民権を得てしまった今日、一般の美術愛好家は取り残されてしまいました。それが、一般の愛好家を超えてわからない人にもわかる、そういうものを提示できたおかげでブームにまでなることができた。そういうことだと思います。・・・でも、これは極端ですからね!・・・あるいは一過性のブームで終わってしまう可能性だってある。これはもっと怖いかもしれません。

 いじめにあっている子を救うには、いじめっ子と対抗させるのは一見正しいことのように思いますが、それは違います。違う価値観で成り立っている環境に移動させてあげることです。

 じつはいちばんありそうな可能性は、屁理屈アートも、ホキ美術館流リアリズムも、安井、梅原も、とうぜん私のような日陰のアーティストも、あとほんのちょっとしたら根こそぎ歴史のかなたに吹き飛ばされることです。スマホの中が世界だという人たちにとっては今までのアートは理解不能だろうし、「関係ない」のひと言で片付けられてしまうと思います。

 よく耳にする言葉ですが、あるスタイルが時代の流れで消えていく時に、スタイルは変わってもアートとしての中身と機能はちゃんとつながるから。

 私はこの意見に反対です。クラシック音楽は終わってしまってますが、現代のポピュラー音楽がクラシック音楽ほどの中身を持っているかというと、とてもそうは思えません。こう言うと大反発をくらいそうですが、単調で薄っぺらに聞こえてしまいます。耳がついていけてないだけかもしれないんで、そうならごめんなさい。ただ人々にとってアートとしての機能を担っているということは、これは事実だと思います。単調で薄っぺらな人生を歩むことがないように祈ります。・・・複雑でデコボコの多い人生は、「めんどくさい」ですか?

 新しいスマホ世代は、スタイルの変化というレベルではなく、今までアートと考えられていたものを根こそぎ過去のものにして新しい形を産む(かもしれません)。世界を認識するのに自分の身体ではなく、スマホを通じて認識するというまったく新しい人類が生まれてしまったわけですから、この可能性のほうが高いのではないでしょうか・・・アートの機能を担うナニモノかを産んでくれれば、私たちはOKとしなくてはいけないのではないか。

 ・・・いいのかなあ・・・



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