25、幼年期の始まり(1)子供の自立
アーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」は知ってますか?SF小説の古典です。スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」の原型になった小説です。人類が猿から飛躍的な進化を遂げて、今の人類の進化の状態を幼年期ととらえて、次の段階への飛躍的な進化を描いています。
今日の私の話は、直接には美術にはあまりつながらないことになると思います。ただ美術をやっていて、あるいは生活するうえでどうしても避けられない近代の話をするつもりです。ただいつも断っていますが、私は学者ではないですし、このブログは論文ではないので、科学的な裏付けもなければ論理性もあやしい展開になります。隠居の独り言として読んでいただけたらと思います。あえて言えばエッセーでもなくて感想文です。
近代って子供の自立と重なりませんか?
王侯貴族からの自立、イコール親元からの自立。自立したからには自分のことは自分で責任を持たなくてはいけない。個性的でなきゃいけない、自分探しといった無意味な課題が生まれるのはここからだと思います。
親から自立した、イコール保護者を拒絶したということです。大人は人生経験があって、その経験からああしたらいい、こうしてはダメだと来るわけです。そういった経験に対抗する手段として知性があります。論理的に考えることでああしたらいい、こうしてはダメだと決定しようとするわけです。
この知性という武器は、もちろん文明(あくまで文明であって文化ではありません)が発展するためには大きな力を発揮しますが、私はやはり人間にとっては補助的な武器だと思っています。とくに子供にとっては。人生経験の少ない子供にとって、大人の言っていることを理解するために。自身で現実と対処しなくてはいけないときに。
どう考えても、文化のほうが文明より大事でしょう。文明は文化を支えるためにあったはずが、文明が文化を追い越してしまったのが現代です。子供に文明のありがたさはわかっても、文化の大事さをわかれっていうのは厳しいですよね。
知性が子供の武器だと考えるようになったのには二つの理由があります。
ひとつは、自身がようやく大人とみなされる年齢になったことです。大人になってわかったことは、わからないことが増えたということです。また物事には正解も真実もなく、物事には裏表があるということが実感として染み付きました。物事は知性なんかで簡単に片付くものなんかじゃない、ということです。
もうひとつは、知性が導く論理性の不完全さです。戦争をやっている二つの国には、どちらも正当な論理があります。論理同士をぶつけあったところで結果は喧嘩になるだけです。「理屈と米の虫はどこにでもつく」。私の父親がよく口にしていました。・・・私が子供の時、屁理屈ばっかり並べてたってことですが・・・
親から自立した子供の武器は知性です。子供たちは知性が経験よりも力になると勘違いをしてしまいました。この勘違いを生んだのは、知性が基盤になる科学技術の急速な発達と、文明の輝かしい発展です。19世紀以降の発展を考えると、まあ勘違いもするかな。ですが。
困ったことに芸術の世界でも知性が上位に立つことになってしまったことです。美術では写実主義から今日の屁理屈アートまで、その発展の歴史は論理的にきちんと説明できるものです。もちろん個々の作品もです。
私の好きなクラシック音楽。作曲は美術といっしょです。ふつうの愛好家は、現代音楽は相手にしません。相手にするのは昔の曲の演奏です。困ったことは演奏についても、学者や評論家といった専門家が、知性的であることを至上の価値とみなしていることです。「マウリッツィオ・ポリーニ(興味のあるひとは調べてください)は情に流されず知性的な演奏で素晴らしい」。ヤダヤダ・・・専門家同士でやっててください。偉い先生のいうことだからって振り回される愛好家だっているんですからね。私自身ポリーニの呪縛から逃れるには、時代がコンセプチュアルの行き詰まりから次の時代を模索しだしたころ、彼自身も袋小路に陥ってしまったこと、ちょうどそのころ留学をしていて現代美術に愛想を尽かしたこと、日本の江戸時代以前の美術の豊かさを再発見して自分はこの後継者にならなくてはいけないと考えたこと、この留学時代にベルギーでラドー・ルプーのコンサートに行けたこと(この時はメインにベートーヴェンのピアノ・コンチェルトの4番、そのアンコールにモーツァルトの幻想曲を演奏しましたが、豊かな感情にあふれ深い精神性を感じさるものでした)、これらの後押しで、ようやくコンセプチュアル・アートとコンセプチュアル・アートを美術以上に体現していたピアニスト、ポリーニから脱却できたという歴史があります。
さて、いつからを近代と考えるかは諸説あって厳密なものではありませんが、私は市民の王侯貴族からの独立を基本に考えています。もちろん資本主義もおまけにくっついてきます。近代が始まってすでに200年は過ぎています。子供が自立して200年。ふつうに考えれば、子供は成長して大人になるわけですが、近代はそれを許しません。知性は経験より上位に位置づけられているのですから。意地でも子供であり続けながら発展をしなくてはならないというのが近代のジレンマになります。・・・そうだ。自分で言葉にして思い出すのも情けないですが、この発展という言葉も近代のキーワードですね。文明は発展しますが、文化は発展しません。文明は社会の発展に寄与はしますが、個人の成長に寄与することはありません。文化は社会の発展には寄与しませんが、個人の成長に寄与します。文明が前面に出てしまった社会では、発展しなければいけないという強迫観念を人々に植え付けることになります。人間としての成長を拒否しながら、文明の発展を目指す。・・・なんかすごいです。本末転倒。
その発展の最終形がコンピューターです。
私は中学生の時に、映画「2001年宇宙の旅」、「猿の惑星」を見て、すぐに原作も読んで、映画だけでなくSF小説にもすっかりはまってしまってました。そんななかレムの「ソラリスの陽のもとに」に出会って、それが日本でロケされて映画になる、そんなニュースがあって、でもその映画タルコフスキーの「惑星ソラリス」が公開されたのは私が大学生になったころで、これでまたタルコフスキーにやられる・・・私事ですが・・・
若いころむさぼるように読んだSF小説ですが(今もけっこう読んでます)、SFには近未来をテーマにするものが多いです。「2001年宇宙の旅」もそうです。ずいぶんと読みましたが、誰もがスマホという超小型のコンピューターを身体の一部として持ち歩く社会を予言したものはありませんでした。巨大なコンピューターが人間を支配する、は近未来SFの定型でしたが。
近未来を迎えてみると、巨大コンピューターに支配されることはありませんでしたが、超小型コンピューターに支配されることになってしまったようです。巨大コンピューターによる独裁制は避けられましたが、ポピュリズムは避けられない、のかなあ・・・まあ結果はいっしょですが。
ちなみに第二次大戦を引き起こしたドイツとイタリアのファシズムですが、ポピュリズムの延長上で生まれてしまったものですよね。日本は世界恐慌の荒波は同じように受けてはいてもポピュリズムを背景にしたものではないと思います。明治維新という軍事クーデターに成功して、日清戦争、日露戦争に勝って調子に乗った軍人たちが天皇をかつぎだしてポピュリズムを作りだしたという逆の手順だったと思います。そういう構図のせいで独裁者ヒットラーやムッソリーニが生きてはいられなかったのと対象的に、利用されていた天皇は生きのびることができた。そういう構図だと思います。皇室は利用されたとはいえ深く戦争を反省していて、今の天皇は一生をかけて謝罪の旅をしてきたと思います。・・・私たちはアーティストなんで政治には首をつっこむなと友人フランクには言われています。私もそう思います。会うときには政治の話はよくしますけど。こういうブログに載せるのはアーティストにとっては良くないのかもしれません。あんまり深入りしないようにします。
話を戻します。閑話休題。ずいぶん昔、里見八犬伝を原文で読みました。長い小説で、話があちこちに飛んでしまうんですね。それで話を戻すときに閑話休題。江戸時代の小説は漢字がびっちりですが、すべてにフリガナが振られています。フリガナを読めばいいわけなんで、とんでもない当て字が頻発します。閑話休題のフリガナは「それはさておき」です。・・・これから使おう・・・
2016年はポケモンゴーが売り出された年として記憶される年になると思います。これはゲームに縁のない私のような旧人類には衝撃でした。ゲームはコンピューターのなか、スマホのなかの仮想空間で楽しむものだと思っていたのが、仮想空間のほうが現実の空間に飛び出してきたわけです。子供たちが電車の窓の外の世界に夢中になるのではなくてスマホに夢中になることに象徴されるように、子供たちが世界を認識するのは生の自分の目ではなくてコンピューターの目を通してです。つまり仮想空間を通じて現実を認識するという道筋です。ポケモンゴーは、その仮想空間が現実に実際に侵入したということで、これはひとつ壁を越えてしまったということです。それがいいことか悪いことかは、私のように老い先短い旧世代が判断することではなくて、私たちがいなくなった後の社会が判断するものだとは思います。家のなかに閉じこもっていた子供たちが外に出て友達ができるだの、歩きながらやってたら危ないとか、そんなことはごく表面的ないい悪いにすぎないと思います。
思いますが、ただひとつだけ注は加えておきたいと思います。今はまだ社会の中枢を担っている大部分は旧世代です。その旧世代はたぶん心の深いところではポケモンゴーは危険なものだと感じていることだと思います。ですが、彼らはポケモンゴーをOKしてしまった。なんでか。経済効果です。スマホもゲームも子供たちには危険だということを知りながらOKにしてしまったのは、近代の価値観が子供を中心に据えているからってことよりも、まずお金です。私たち旧世代もじつは文明の華やかな発展の夢を捨てられないということなんだと思います。
2016年はまた人型ロボット元年だそうです。NHKで人型ロボット開発を紹介する番組を見ました。私には、この番組自体が作り手の都合にあわせて現実を再構築した仮想空間のように見えました。構成は、日本、フランス、イタリア(他にもあったかな?)、世界各地の人型ロボット開発の紹介と、人型ロボットが家庭に入ったらという実験の紹介の2部構成になっていたと思います・・・見てからけっこう時間が過ぎているうえに、最近一段と物忘れがひどくなっている隠居老人なんで、違っていたらごめんなさい。
ロボット開発については、どこも一様にモデルは鉄腕アトムだそうです。日本のアニメは、たぶんふつうの日本人が考えている以上に世界中を席巻し続けています。世界中の若い世代にその洗礼を受けていない人はいないと思います。手塚治虫は、その元祖ですからね。戦後の欧米に対する劣等感のしみついている日本人としては、なんともこそばゆい優越感をくすぐるものだと思います。
人型ロボットが家庭に入る実験のほうは、パリに住むアジア系の美少女と、彼女に温かい理解を示す白人のカップルのアパートに、生まれたてのロボットが同居するという設定です。生まれたてのロボットはカップルに育てられ成長をしていきます。ちょうど赤ちゃんが成長するのと同じようなプロセスをたどることで、最初はあまり協力的でなかった彼氏もロボットに愛情を感じるようになります。
このパリに住むアジア系の美少女と白人のカップルというのも語っていると思いませんか?日本(アジア)から来たロボット文化を欧米が受け入れるという構図の縮図になってますよね。
この人型ロボットは、たしかにかわいいです。ですが、ウンチもおしっこもしないし、教育はアプリをインストールすることで、ロボット自身も経験を重ねることで成長するようにプログラムされている。これって「おままごと」じゃありませんか?つまり子供の遊びです。
この番組では、フランスの開発者にインタビューがされているのですが、ロボット社会の明るい未来を語ります。ただ、ここで気になったのは、彼が話の最後に、これは大きな市場を作ることになるだろうと言ったのですが、そこだけ字幕には訳されていなかったことです。字幕の字数には制限があることはわかりますが、フランス語が多少わかる身としてはそれはないだろ、でした。陰謀ですよね。結局、お金です。経済効果が見込まれるから野放しになる。ポケモンゴーと同じ構造です。
手塚治虫が生きていたら、どういう思いでこのロボット社会を見るんでしょう?すなおに喜ぶとは思えないのですが。ダイナマイトが人殺しの道具になってしまった罪滅ぼしにノーベル賞が作られました。アインシュタインたち科学者は、核兵器が生まれてしまってから大慌てになって社会に対して責任ある言動の必要性に目覚めました。手塚治虫先生どうですか?外の世界は仮想空間に侵食され、家のなかでは人型ロボットです。
子供たちはかわいそう。って考えるのは私たちの世代の勝手なおせっかいなのかもしれませんが・・・若さにしがみつく老人が見苦しいということは以前書いたと思いますが、若い人たちこそ若さにしがみついているように私には思えます。
理由のひとつは近代が子供の価値観が中心であるということですが。もうひとつは大人になることに希望が見出せないという問題もあると思います。成長を重ねた大人がいて、彼らの豊かさを見れば、大人になるっていいなと思えるはずです。この豊かさは、内面の豊かさだけではなく外側の豊かさも必須です。この話はあちこちでしているので、またかと思われるひとも多いかもしれませんが・・・学生のころ、版画家の刷りのアルバイトをしたことがあります。そんなに有名な版画家ではありません。業界ではそこそこ知られているというレベルです。が、自身の素敵なアトリエを持ち、専属の刷り師がいて、その刷り師だけでは注文をまかないきれないで、私たちがアルバイトに駆り出されたわけです。これは版画は商品であるというあたりまえのことを勉強するいい機会になりました。刷りの作業はひたすら刷り師がやっていて、彼自身はめったに顔を出すことはありませんでした。が、ある日、今日は食事をごちそうしてあげようと誘われました。ガレージに行くと車が2台あって、1台はムスタング。そのムスタングに乗せてもらって、ブロロブロロです。食事の中身は忘れてしまいましたが、このブロロブロロは忘れません。これから私がお金持ちになる機会があったとしても外車なんかにお金をかける気は全然ありませんが、若い時にしたこの体験は夢につながりました。こつこつ作品を作っていけば、そんなに有名にならなくても豊かな生活ができるんだ。今の私は有名ではありませんが、業界ではそこそこ知られているというレベルだと思います。が、すくなくとも外側は全然豊かではありません。これじゃ若い人へのモデルにはなれません。逆に、あんなに頑張り続けてもあのレベルかイヤだイヤだっていう反面教師にしかなっていないかも・・・
大人が若さにしがみついて、大人としての言動を忘れてお金に走る。大人としての言動って何でしょう?大人の定義は、私は他人のために動けるようになることだと考えています。そういう意味では、年齢的には子供のころにすでに大人と呼べるような人はけっこういるものです。私は自慢じゃありませんが、若い時は完璧に自己チューな子供です。高校時代までの私は思い出すだに恥ずかしいお猿さんでした。それが様々な経験を重ねることで、ちょこっとずつですが作品とパラレルに成長してこれた(と自己中心的に思ってます)。こっちが自慢かな・・・ただ自戒も込めて言いますが、年齢を重ね、経験を重ねるごとにまだまだ成長できるという伸び代が増えている感じです。これから年齢を重ねることが楽しみで仕方ありません・・・このブログの「仕事とは何か」で書いているとは思いますが、他人のために働いて、そのお礼としてお金が返ってくるというのが私の仕事の定義です。そういう仕事が個人の成長を促す。それが今はお金を得るために仕事をするという本末転倒になってしまっています。お金さえ得られればいいという価値観が、振り込め詐欺やブラック企業を生むわけで、あたりまえですよね。