26、幼年期の始まり(2)ノブレス・オブリージュ
大人としての言動。みなさんはノブレス・オブリージュという言葉を知っていますか?もともとのフランス語は能動態ですが、日本語にするときには受動態で、「貴族には義務が強制される」って訳したほうがいいかもしれません。原始社会を考えてください。小さな部族があります。神様の声を聞く係、お話や音楽、美術などみんなを楽しませたり部族の記憶にかかわったりする係、その他おおぜいの食べ物を調達したり服や家をつくったりする係、グータラしててみんなのお荷物になる係、リーダーシップを受け持つ係。このリーダーシップの係は、とくにいざという時に力を発揮します。外の部族が攻めてきたり、大きな自然災害に見舞われた時、彼らには命がけで部族を守る責任が生じます。いざという時に命を懸けてくれるんだから、日常では尊敬もされるし贅沢な生活も許される。そういう構図が王様や貴族を生むわけで、これは時代や人種を越えた人類の基本形だったと思います。高校の先生をやっていて、これはほんとうに実感されます。人類はそうなるようにプログラムされているとしか思えません。学力が中レベルの子供たちが集まる学校、学力が低い子供たちが集まる学校、私はどちらも経験しました。学力の高い子供たちが集まる学校で教える機会はありませんでしたが、私自身がそういう高校の出身なんで様子はわかります(今は変わってきてるのかもしれませんが)。学力が高い子供たちは中学校までにリーダーシップを受け持つ係についた経験が多いはずですし、学力が低い子供たちにはそういう機会は少なかったはずです。ところが、どんな学力レベルの学校でも一定数のリーダーシップを取る子、足を引っ張る子、娯楽を受け持つ子、これらの比率は不思議と同じです。ある種の魚は生まれた時はオスばかりなのが、ある季節になると必要数がメスになる(オス、メス逆だったかな)。それと同じ構図です。
日本の江戸時代の後半の時期と、フランス革命とその後のゴタゴタの時期はほぼ重なります。江戸時代のノンビリした平和と、革命のスローガン「自由、平等、博愛」らしきものが社会の体制として落ち着くまでに膨大な犠牲をはらって(フランス革命は今の目で見たら内戦が続くアフリカの国と変わらなかったんじゃないかと思います)、半世紀以上かかって実現したというのはずいぶん対照的です。江戸から明治への移行もけっこうな犠牲を生んでますし、薩長中心の政権強奪はあとをひく問題を生んでいます。でも一般の庶民にしてみればフランスと比べればずっとましかな、とも思います。高村光太郎がお父さんの高村光雲にインタビューした本を読みましたが、高村光雲は下谷に住んでいました。上野に近いですが、上野の山の下に友人が住んでいて、なんかお山の上のほうが騒々しかったそうです。江戸の地で唯一行われた戦闘、彰義隊と官軍との戦いも庶民にとってはそんなレベルだったようです。政治を考えれば近代の帝国主義の形を作り上げるには日本は欧米よりはるかにすっきり移行していると思います。鎖国のおかげでお金が儲かっても海外進出など考えられなくて、儲かったお金を地元で還元することで誰もがそこそこ豊かな生活を送れた江戸時代から帝国主義っていうのは、これは進歩とも発展とも違うとは思いますけどね。文化的に低い代わりに文明度は高い欧米に合わせるために、戦国時代に近い状態に逆戻りしたんじゃないの。は言い過ぎかなあ・・・
フランスの王侯貴族が、王侯貴族としての義務を忘れて贅沢三昧をやってたために庶民は貧しい生活を強いられた。ふざけんな!が革命の原動力だったわけですよね。江戸時代は、為政者としてのお侍様は貧乏で庶民は豊かな生活をしていた。最近ではこれが常識になってきているようですが、実際そうだったのでしょう。お侍様たちが、俺たちの生活もちょっとは豊かになるようにしてくれよ、という革命の可能性のほうが現実的なんじゃないかとは思いますが、武士は食わねど高楊枝。彼らは厳しい倫理観と誇り、なんてったて武士道です、革命なんて微塵も考えなかったでしょう。
もちろん外圧に対抗するには幕府は弱すぎたということはあったでしょう。内部改革をする前に薩長の軍事クーデターで政権を奪われた。江戸に関する本を読んでいると、そんな感じに思えてなりません。
ノブレス・オブリージュが正常に機能していれば、王侯貴族が保護者で庶民が子供という構図が自然となりたっていたはずが、ダメ親に愛想をつかして子供が自立した。それがフランス革命ですよね。子供がいきなり政権を取ったところで子供同士で仲裁する大人がいないんで、なかなか安定した政治状況を作れなくて半世紀近くガタガタやっていたのがフランスです。帝政になったり王政にもどしてみたり、また帝政にしてみたり。レ・ミゼラブルに描かれるパリコミューンは、時代的には明治になってからです。・・・お侍さん、つまり保護者同士の政権移動だった明治政府が早々に帝国主義の安定した(庶民にとってはどうなのかなあ、というカッコ付きですが)政治状況を作れたのが日本。そういう言い方はできませんか。
近代になって王侯貴族が建前として権力を失ってからノブレス・オブリージュはどうなったか。フランスがガタガタしたのは、子供だけじゃダメだってことで帝政になったり王政にもどしてみたりをするわけです。日本のほうは薩長中心って問題はあるにしても、お侍さんからお侍さんなので、今でも明治の元勲などと呼ばれる民衆のヒーローでいられたわけです。
ヨーロッパは階級社会だと言われています。実際にイタリアに何度も足を運ぶと実感します。友人のマウロは明らかに上流階級の人です。いつでもイタリアのダンディを絵に描いたような上品なおしゃれをしています。美術学校の経営者として超多忙な生活を送っていても、けっしてバタバタはしていません。話し方もゆっくり落ち着いています。聞く音楽はクラシック。映画もアート系のもの。作品も無駄のないシンプルで気品のあるものです。私が親しくしてもらえるのは、作品を評価してくれるということもありますが、音楽と映画について深い話ができる仲間だからだと思います。私にとっても映画と音楽と両方について(私は相当なオタクですよ)情報交換できる最高の友人です。彼にとってのノブレス・オブリージュは、今の時代にふさわしい美術学校を作りあげることと、グローバリズムに振り回されない健全なアート・マーケットを作るという意気込みで画廊経営に乗り出すこと。初めて彼と会った時は、まだ美術学校を始めたばかりのころで、その後の10数年での彼の発展ぶりには目を瞠るものがあります。私も千葉県の公立高校で初めての芸術科の立ち上げから関わって現場で頑張ってきましたが、しょせん公務員のワン・ノブ・ゼムという限界で思ったような成果はあげられなかったことを思うと、まさに対照的です。ヨーロッパでは少なくとも文化の世界ではノブレス・オブリージュが生きているということでしょう。
では政治では。カズオ•イシグロの「日の名残り」は見ましたか?読みましたか?映画では主演のアンソニー・ホプキンスの魅力と監督のジェームス・アイヴォリィの演出の方向からか、ノスタルジックな空気と主人公の悔恨が表に出た感じですが、原作では、執事をする主人公が敬愛する貴族がドイツとの融和のために奔走する様子が大きな主題になっているように思います。貴族同士で世界を動かすことがすでに不可能であることをアメリカ人の登場人物が象徴的に示します。
日本では料亭政治がその舞台だったのだと思います。昔の政治家は、表舞台では演説でも国会答弁でも何を言ってるのかわからない人が多かったです。今は、結局ごまかすにしても、とりあえずは弁舌さわやかでわかりやすい日本語を使います。民主主義が根付いたのかもしれません。
1994年ですが、私はフランスのシャマリエール国際版画トリエンナーレに招待されました。日本ではあまり知られていませんが、私の見聞した範囲では世界最大レベルの版画の祭典です。カタログは辞書のような分厚さです。シャマリエールの町すべてが版画一色になります。町の中心にある広場の地下の大駐車場に地元の美術学校の学生が用意したという手作り感満載の板製の展示パネルが大量にあって、そこで公募で選ばれた世界中の版画が並びます。市内の公的な大きな展示場2つでは中国の現代版画(この数年前に交流展をやっていたので、知り合いが何人もいたことを覚えています)とたしかポーランドのクラコウ・ビエンナーレ(これも歴史ある有名な展覧会です)の巡回が開かれていました。そして隣町のクレルモン=フェランも巻き込んで、大小様々な展示会場で世界中から選ばれた十数人の個展が開かれます。私はそのひとりとして招待されたわけです。アーティストとして評価されたこともあるかもしれないですが、プリントザウルスの代表というのも選ばれた大きな要素だったと思います。私を推薦してくれたベルギーのクロード・サンテは公募展の審査員でした。招待された関係者はすべて同じホテルに泊まります。夕食券が配られて、関係者はそのホテルで夕食をともにすることになります。これが楽しかった。音楽、文学、映画の話題が中心になります。この夕食の最中に大江健三郎がノーベル賞を取ったというニュースが入りました。それでこの年が1994年ってわかるのですが。唯一の日本人ということで当然振られたのですが、私は思わず冗談だろ、から始めていかに大江健三郎がダメだか熱弁をふるった覚えがあります。このころはまだアメリカ、ベルギーの留学を終えて数年なので、英語もフランス語も今と比べれば格段に話せたんで、おおいに楽しめました。この席にいる人たちの雰囲気はやはり普通とは違う感じでした。この展覧会が日本でほとんど知られてないのは公式言語がフランス語だということが最大の理由だと思います。それと日本や中国に目配せはありましたが、やはりヨーロッパ中心という感じもしました。この席にひとりのドイツの評論家が現れました。彼は私と同じ普通の人の空気でした。その彼が「ごめん。フランス語話せない」と言った瞬間、全員が英語に切り替わったこともビックリでした。
ここでは仕事の話題は一切でません。それが朝食になると、あちこちのテーブルに分かれます。私もエジプトの美術館関係者に手招きされて、交流展の可能性について話し合うことになりました(結局これは実現しませんでしたが)。これが忘れられないのはエジプトの彼が、とにかく気品と風格なのです。一朝一夕、一代二代で身につくものではないと思います。これが2、3日続きました。もっといろいろな経験はしたと思うのですが、さすがずいぶん昔になってしまったので・・・夕食では楽しい会話をする。どんな音楽を聴くか、どんな映画を見るかは、そこから人間性が見えます。こいつとなら仕事ができる、そういう関係を築けるかどうかを計る大事なことです。で、こいつとなら仕事ができると判断した者同士が、アルコールのないすっきりした朝に仕事の話をする。オープニングの日には、偉い人と重要な関係者との公的なスピーチが続くのですが、このなかにはホテルの朝食で話し合われた内容が盛り込まれます。
いっしょにいたクロードに、大事な話は食事の席で決まってて、これは儀式みたいなものだと言ったら、あたりまえだろ、日本だって芸者レストランで政治は進んでるんだろ、と言われました。
その料亭ですが、芸者をあげて料亭で楽しむには、日本文化に相当精通していないとできるものではないと思います。今の私のレベルではとても楽しみきることはできないと思います。隠居の身分になった私のこれからの課題はこれだと思っています。江戸時代の吉原の最高レベルの花魁と楽しむってことも無理でしょう。以前、神田の古書店で政治家たちの寄せ書きの色紙を見たことがあります。達筆で漢詩を書いたり、ささっと文人画風の絵を書いたり、たぶん料亭の主人か誰かに頼まれて揮毫したものだと思いますが、私は絵描きの端くれですが、こんな芸当はありません。今の日本画家たちもできないんじゃないかなあ・・・芸大をはじめ美術大学の日本画の入学試験は鉛筆デッサンで(筆と墨のデッサンじゃないですよ)、お習字の試験もない。日頃公募団体展用の絵の具を大量に塗り重ねる大作ばかりを描くことが習慣になっているので、色紙にサラサラは苦手になっていると思います。知り合いの日本画家は席画(宴席なんかで求めに応じてサラサラって描く絵のことです)はしない主義だって言ってましたが、馬に乗れない武士みたいなもんじゃないかと思います。
文壇、画壇などというものが存在できたのは、そういうものを支えるノブレス・オブレージュがあったからだと思います。文壇、画壇の消滅はノブレス・オブレージュの消滅を表しているのかもしれません。ちなみにロシアの友人、アンドレイ•マルティノフはロシア第3の都市、ノヴォシビルスク出身ですが、面白い話を聞かせてくれました。彼は今はモスクワ・ビエンナーレの総監督で
モスクワで生活してますが、ノヴォシビルスクでは国立美術館の学芸員をしていてノヴォシビルスク国際版画ビエンナーレを文字通り国際的なものしたという実績があります。当時、ノヴォシビルスクには芸術家を支えるサロンがあったそうです(たぶん今もあるでしょう)。クラシック音楽の愛好家なら誰でも知っているヴァイオリニストのレーピンはノヴォシビルスク出身で、彼が国際舞台で活躍できるように支えたそうです。サロンは、本当にサロンで芸術家はそこでゆったりと羽を伸ばせるそうです。スポーツジムはあるし、サウナはあるし、美味しいものは食べられるし、最高って言ってました。
日本では画壇が存在していた頃は、画壇のトップに位置付けられる美術家たちはマスコミにもよく登場していました。普通の週刊誌のグラビアページには毎週のようにカラーで作品が紹介されていましたし、有名女優の肖像を有名画家が描くといった企画もあったと思います。私の父親は下町の職人でしたが、家庭ではあの画家はいい、こいつは品がないだとかといったことが話題になっていました。私が美術を志す前ですよ。それが今は雑誌でそんなものは見ることはないですよね。
また、私は高校の先生をやってましたが、先生は庶民と接するインテリの最前線のはずですよね。しかし、美術や音楽については私はわからないと宣言する人たちばかりでした。私が先生になるはるか前に、先生自身が労働者宣言をしてしまっているんだから、まあ当然の帰結ではあるんですが。
ノブレス・オブレージュが存在するには、とうぜんその受け皿があってこそですが、こっちも消えてしまったということです。卵が先か鶏が先か、になってしまいますが・・・
ようやく結論です。これも卵が先か鶏が先かになってしまうのですが、子供が幼児になれる条件として、大人がいなくなってしまったということが決定的なものだということです。
幼年期の始まりです。